下重暁子・「人生の作文」~書いて心を裸にする
2014年10月01日 公開 2023年01月12日 更新
最初の一行、最後の一行
何を書くかが決っていないのに、どう書くかばかり考えている人がいる。自分の内側で決っているものがないのに、どう書けるというのか、順序が逆である。書きたいものがあるからこそ、どう書こうかと工夫するのに、どう書くか、どんな言葉を使うか考えてみてもはじまらない。
早くいえば、どう書くかとは構成を考える事である。何を書きたいかが決れば、どんな構成が書きたいものを表現するのに必須かがわかってくる。
思いがけぬ構成も、うまくあたれば効果的だ。人の度肝をぬく構成を考えたり、どんでん返しをしてみたり、読み手を欺く事も大切になる。
起承転結を守らなければと信じこんでいる人たちがいる。私のエッセイ教室に来る人の中にも、前通っていた教室で、先生からそう教わったからと信じこんでいる人がいる。1つの形ではあるけれど、それだけでは、形通りのものしか出来ない。
自分の文章は、その都度工夫を重ねて変えてみなければ楽しくはない。出来上がったものは壊して、新しく構築する。その事が「どう書くか」なのだ。定型などというものはない。書きたいものをどう効果的に見せるか、そのために必要な方法を考える。どう書くかは文章力の勝負だ。簡単にすませる所と、細かく描写する所、思いをこめる所、何を書くかがはっきりしていればまちがわないはずだ。
限られた枚数で、例えば4百字詰4枚とか5枚とかで書きはじめ、構成が出来ていなければ、前置きばかり長くなる。前置きに、本題と関係のないきれい事を並べると、本題が簡単になり、盛り上がりに欠け、いったい何を書きたかったのかわからなくなる。枚数の制限があれば、結局尻すぼみになってしまう。
前置きの長い文章にろくなものはない。最初からズドンと本題に入ってしまう方が気持いいし、読む気になる。きれい事の並んだ文章はたくさんだ。「わかった、わかった」と先を読む気がしない。
エッセイやノンフィクションの審査をする事があるが、たいてい最初を読めばわかってしまう。文章とは恐ろしいものだ。
文章に限らない。テレビやラジオの審査をする時も最初の1分を聴いただけで、最初の絵を見ただけで、後は見なくてもわかってしまう。審査員の中にはもう先を見ないという人もいるが、なんとか最後まで見たり聴いたりしても、欠伸をかみ殺していて、すぐわかってしまう。それぐらい全篇の緊張が必要だし、たとえさり気なくはじまっていても、演出として決っていれば効果的だ。
面白いものは、読み終って、見終ってとても短く感じるものだし、面白くないものは冗長で、長く感じるから不思議だ。
読み終り見終って、中味を思い返す事の出来ないものは。だめだと思う。
鮮明に映像を、言葉を思い出す事が出来るかどうか、判断の1つである。
最初に期待感を持たせられるかどうか、一行読んでどうなるのかと期待感が持てたらしめたものだ。
だらだらと説明があっては期待などない。これからどうなるのか、作者は何が書きたいのかを楽しみに出来るかどうか。
「最初の一行」が勝負である。
作家は「最初の一行」「最後の一行」という。最初の一行で、おやと思わせ、最後の一行で余韻を残す。
どちらか一方に凝ってもいい、そこは言葉の勝負だ。私はどちらかというとさり気なくはじまり、余韻を持たせ、最後の一行に凝る方だが、もちろんエッセイの様な短いものと、長い小説やノンフィクションではちがってくる。
<書籍紹介>
最後はひとり
老いゆく日々に、孤独の習慣を日常に持つことが大切だ。それは作者にとっては書くことであり、最後の1文を求める人生の旅である。