アルバムをめくるように、過去の出来事を思い出して懐かしむことがある一方で、日常で全く思い出せない記憶もある。
心理学者の榎本博明氏は、記憶は単なる過去を振り返る心の機能ではなく、未来を見通す心の機能でもあり、現状をとっさに見抜く心の機能でもあると解説する。記憶と心の関係について解説する。
※本稿は、榎本博明著『記憶の整理術』(PHP新書)より、一部を抜粋・編集したものです。
記憶は単なる“過去の記録”ではない
多くの人が勘違いしていることがある。それは、記憶を過去の記録と思い込んでいることだ。記憶というと、過去の出来事や経験の単なる記録と思われるかもしれない。だが、これは大きな勘違いなのである。
かつては心理学の世界でも、記憶が過去の記録そのものであるかのように考えられていた。当時の記憶理論は、言ってみれば「コピー理論」だ。オリジナルがそのまま保存され、引き出される。「記憶の貯蔵庫モデル」ともいわれる。出来事を瞬間的に冷凍し、保存しておき、思い出すときに解凍すると、オリジナルな出来事がそのままの形で引き出される。
しかし今では、記憶はそのような受け身の心理プロセスとは考えられていない。記憶というのは、オリジナルな出来事とは別に、記憶する人によって能動的につくられるのである。
記憶に先立って、知覚という心理プロセスがある。ある出来事を見て、それを記憶する。ある話を聞いて、それを記憶する。その「見る」とか「聞く」というのが知覚である。私たちはけっして受け身に知覚しているのではない。
ショーウィンドウの前に立つあなた自身をイメージしてみよう。そして、ショーウィンドウの中を覗き込んで、そこに飾ってあるマネキンが身につけている服を観察しよう。そのとき、ショーウィンドウに映っているはずの自分の姿は見えていない。
つぎに、ショーウィンドウに自分の姿を映して身なりを整えよう。そのとき、ショーウィンドウの中のマネキンは見えていない。カメラで写せば、マネキンと自分の姿が二重写しで映っているはずだ。網膜にも二重写しで映っている。
だが、私たちは、とくに関心のある刺激、自分にとって意味があると思われる刺激だけに絞って知覚する。知覚には取捨選択が伴う。このようにして知覚されたものを記憶する。
ある視点をとるとマネキンが見える。別の視点に立つと自分の姿が見える。どちらが正しくて、どちらが間違っているという問題ではない。どちらも正しい。どちらのほうが自分にとって意味があると感じるかが問題なのである。
ゆえに、同じ出来事を経験しても人によって思い出すことが違うのは、じつは当たり前のことなのだ。
同じ出来事を目の当たりにしても、興味を感じて見ているところが違う。同じ話を聞いても、とくに関心をもって聞いている箇所が違う。したがって、同じ出来事を経験しても、同じ話を聞いても、思い出すことは人それぞれに違っている。人によって視点が違うのである。
視点の違いがスレ違いを生む
同じ歴史的事件に関しても、国によって解釈が違う。それは、国によって立場が違うからだ。立場が違えば、当然視点も違う。これは、政治絡みの深刻な話に限らない。
巨人対阪神の伝統の一戦で、ツーアウト満塁ボールカウント「スリー・ツー」というチャンスで阪神のバッターがきわどい球を見逃した。が、ストライクと判定され三振に倒れた。そこでボールの判定なら、押し出しで点が入り、同点になっていた。結局、その回は無得点に終わり、試合は1点差のまま進行し、阪神は敗れた。
こうなると、阪神ファンは、あの審判のミスにやられたという思いが強いため、その三振の場面ばかりを思い出しては悔しがる。一方、巨人ファンにとっては、当然三振だとの思いがあるためとくに印象に残らず、思い出すのは先制点を叩き出したタイムリーヒットの場面となる。
同じ試合を見ていても、どちらのファンであるかによって視点が違うのだ。視点が違うから、見えていることが違い、思い出すことが違うのである。
そう考えると、身近な人たちとの間で、記憶のスレ違いがしばしば起こるのも、やむを得ないことがわかるだろう。興味・関心の違い、利害の違い、立場の違い、そういったものが視点の違いをもたらし、記憶のスレ違いを生むのである。
逆に言えば、記憶のスレ違いには、それぞれの興味・関心の違い、利害の違い、立場の違いが如実に反映されているのである。