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生き方

「親の期待」にこたえ続けてきたのに、“人生しんどい”のは何故なのか?

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2024年02月15日 公開 2024年02月16日 更新

「親の期待」にこたえ続けてきたのに、“人生しんどい”のは何故なのか?

周囲からの期待に必死で応えようとする人がいる。しかし、相手に自分の期待を押し付ける人の欲望は、どこまでも際限がないものである。周りを気にせず、自分の人生を歩むにはどうしたらいいのか。早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏が語る。

※本稿は、加藤諦三著『「自分」に執着しない生き方』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。

 

解決しようとしてはいけない問題がある

どうにもならない人生から逃げようとしているから、いつまでもイライラするのである。よくなろう、よくなろうとするからイライラする。どうにもならない人生を、どうにかしようとするからイライラするのだ。

どうやったって、どうにもなりやしない。そのどうにもならない人生から逃げようとしていれば、いつになっても苦しい。どうにもならないこの人生を、どうにもならないものとして背負って生きていくのである。

逃げるな! 逃げれば必ずつかまる。逃げずに逆にこの手で人生をつかんでしまえ。

僕は20代で『俺の胸に火をつけた言葉』(現在、『20代の私をささえた言葉』にタイトル変更)を書いているころ、人間は死ぬまでやればなんとかなるだろうと思っていた。

しかし、これを書いている今は、死んだってどうにもなりはしないとわかった。『俺の胸に火をつけた言葉』より前の本を書いている時、学歴がなくて人にバカにされている人は、くやしいのだろうなと思った。

しかし、今はそうは思わない。学歴がなくてバカにされて、出世できなくたって、それで生きていけるなら、ありがたいことだと思う。バカにされてくやしいのは、そのバカにした人と同列だからである。そんなくやしさは、精神的に他人にぬきんでさえすれば解決がつく。

しかしこの世の中には、この人生には、気持ちのうえでいっさいを超越したぐらいでは、どうにもならない問題がたくさんあるのだなあと思いだした。肉体の苦痛やその他の問題は、超越ぐらいで解決がつくものではない。

つまり、解決しようとしてはいけない問題があるのである。解決しよう解決しようとすれば、いよいよつらくなる。そして解決しようとする気持ちがあるかぎり、けっして解決できない。では、どうするか? 解決しようとしないで、そのまま問題をまるのみしていくのである。

その問題について切迫した事態に陥って解決を迫られているなら、その問題自体をなくしてしまうようにしていくより仕方がない。その問題を"問題"でなくしていくより仕方がない。つまり、心理的に成長すること。

天地宇宙あらゆるものを、自分のなかにのみ込んで生きるのである。親も女房も、子供も友人も、貧乏も名誉も、学校も地位も、何もかも自分のなかにのみ込んで生きていくより仕方がない。人間最後は、いっさいをのみ込む器として生きていくより仕方がないのだろう。

 

周囲の人間がこわくなくなるには

人間は他人の期待などに、終生従えるものではない。人間は他人の期待などにこたえられるものではない。よく、いくじのない若者は「親の期待があるから、それを裏切れないからこうしているのだ」という。

しかし一人の人間が命がけで努力したって、親の期待などにこたえられるものではないのだ。"はえば立て、立てば歩めの親心"というように、親の期待も無限なのである。どこまでいったって、これで終わりなどということはない。

ことに自分の果たせなかった望みを...などという親の期待になど、命をすりへらして一生涯をかけたって、こたえられるものではない。

人間の欲望は無限である。自分がどこまで出世したって満足できないように、また他人にそのようなかたちで期待する人は、どこまでいったって満足しない。

はえば立て、立てば歩め、歩めば小学校の入学式、100番になれば10番に、10番になればクラスで1番に、クラスで1番になれば学校で1番になって近所に自慢して歩きたい。

学校で1番になれば○○名門中学校へ、有名大学、大企業、そしてウチの息子は○○会社ではやくも出世コース、同期で1番...自分の果たせなかった望みを子供に託すような人の期待などには、死んだってこたえられないのである。

息子が息子の道を、責任を持って歩けばそれでいいと思わない親は、死ぬまで息子を苦しめつづけ、また、自分を死ぬまで満足させられない。他人の期待に添いたいなどという人は、おそらく自分の命を捨てて、その人の期待に添おうと努力したことのない人ではないだろうか。

期待された人間は殺される。そして死んでみても、まだ相手を満足させられないのである。自分は死んでもだめなんだ、自分の命ではだめなんだ、と知った時、人間は主体的に生きはじめると思う。

何事でもいい。「ああ、自分は死んでもだめなんだなあ」ということを実感するまでは、人間はだめだ。期待する、期待されるということより、協力し合うということではないだろうか。協力し合うことなしに、一方的に相手に期待をかけるのは殺人者だ。

自分の側の努力なしに相手に期待する人間は、犯罪者だ。協力しない者は、他人に期待する資格がない。

社会に協力しないものは、社会に対して何物も期待してはならない。お互いにお互いを尊重し、手を取り合って協力する──それが本当の人間関係なのである。期待する者と期待される者、この人間関係は犯罪的人間関係だ。人間が期待しうるとすれば、それは協力を期待することだ。一方的な期待は許されない。

しょせん人間が正しく期待されるなどということはあり得ない。過小の期待に悩むか、過大の期待に苦しむか、どちらかである。期待されなさすぎれば情けないし、期待されすぎれば苦しい。

僕は生まれてから今日まで、そのどちらかだった。これからもそのどちらかだろう。過小期待と過大期待とどちらがいいか、などというのは、腹痛と頭痛とどちらがいいか、みたいな質問だ。

人間は、どっちにどうころんでも今より大変になることはない、というところまで追い込まれない限り、迷いからさめない。

"どうなったって今よりは楽だ"──そこまで厳しく追いつめられ、今日、命を奪われるか、あす倒れるか、そこまで追い込まれれば"えーい、どっちにでもしやがれ、殺すんなら殺せ!"とクヨクヨ悩まなくなるだろう。クヨクヨ悩んでいるのは、まだ本当に苦しめられていないからである。

そこで大切なのは、誠心誠意で事にあたるということである。誠心誠意で事にあたらなければ、いつになっても、この"どうにでもしやがれ"という覚悟はできてこない。

自分として、人間として可能な限り誠意を尽くして、なおそこでだめなんだ、ということが判明するまでは、人間はクヨクヨするのかもしれない。他人を恐れるのかもしれない。

広くいえば社会に対し、具体的にいえば学生に対し、肉親に対し、読者に対し、友人に対し、仕事の関係に対し、それぞれの人間が、自分の周囲の人々に誠心誠意尽くしてみて、もはや自分のからだなんかどうなったってかまやしない、病に倒れたっていい...

そこまで誠意をもって尽くしてみて、それでなおかつ、自分の周囲の人間に対し期待に添えないとわかった時、命を捨てても、あす死んでみてもだめだとわかった時、はじめて自分の周囲の人間がこわくなくなるのではなかろうか。

【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

 

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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