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生き方

「悩みが尽きず、周囲に卑屈な人」ほど自分しか見えていない

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2024年02月20日 公開

「悩みが尽きず、周囲に卑屈な人」ほど自分しか見えていない

容姿や学歴が秀でていなければ、幸せになれないと思い込んでいる人がいる。悩みに囚われ、自分の内へと閉じこもってしまった人が、充実した人生を送るには何が必要なのか。早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏が語る。

※本稿は、加藤諦三著『「自分」に執着しない生き方』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。

 

自分、自分、自分で消耗していないか

これだけ人に迷惑をかけているのにどうして気がつかないのだろう。とにかく不思議になる。

そして悩みの相談は、自分は他人のためにこんなに迷惑を受けているというようなものなのである。自分が人から迷惑をかけられることにはひどく敏感なくせに、他人に迷惑をかけることには全く無関心なのである。

そしてたいてい迷惑しているというのはその人の甘えである。自分は周囲の人から特別にあつかわれて当り前と思うから迷惑と感じているだけである。

彼らには驚くべき前提がある。自分の人生には何か障害があってはならないということである。カレン・ホルナイに言わせれば、これはまさにノイローゼである。

カレン・ホルナイは神経症的要求としてこれをあげている。自分の人生に何か障害があってはならないという前提で生きていれば、あれもけしからん、これもけしからんとなるのは当り前である。これでは加害者であっても被害者と思い込むのも当り前である。他人に迷惑をかけても、それに気づかないのも当り前である。

人生には障害がないのが当り前なのではなく、人生には障害があるのが当り前なのである。自分の人生には障害があってはならない、障害があるべきではないと思い込んでいる人は、カレン・ホルナイのいうノイローゼである。

どこまで自己中心的な態度で押し通しても、絶対に人間は幸福になれない。たとえどんなに次から次へと自分の願望がかなえられても、それ以上のスピードで欲求不満はつのる。他人の不幸など見向きもしない。いや、他人を不幸にしたって何だっていいから、自分のエゴを押し通す人は、絶対に救われない。

自分が助けてあげられる人がそばにいるのに、けっして助けようとせず、自分、自分とかまっている人は絶対だめだ。それは、僕自身がそうだったからよく知っている。

自分が不美人だと、そればかりにとらわれて、自分を世界一不幸だと手紙をくれた人がいた。自分、自分、自分、しかしその人が、その自分、自分、自分からほんの少しでも離れて、そばの孤独なおばあさんの話し相手になってやれたら、どんどん幸福になっていくのである。

自分、自分で、家にとじこもって、何もしないのでなく、若者の集まりの準備の手伝いを少しでもしていけば、どんどん人生は開けてくるのである。

周囲から目をそらせばそらすほど、人間は不幸になる。社会から目を離せば離すほど、人間は不幸になる。社会から目をそむけ、自分のうちへとじこもればとじこもるほど、人間は無気力になっていく。

人間はそうできている。自分のうちへうちへととじこもれば、生きがいを失い、無気力になるし、社会へ向って目を開いていけば、それだけ人生も開けてくるし、生きがいもでてくる。

自分、自分、自分で自分のことで消耗し尽くしている人は、こうしなければ自分は救われないというある解決にしがみついている。

たとえば自分は美人にならなければ幸せになれない、自分はあの会社に入らなければ幸せになれない、自分はあの人に勝たなければ幸せになれない、自分は皆に誉められなければ幸せになれない、それ以外に自分の幸せになる道はないと思い込んでいる。

自分はすごい人にならなければ、悩みは解決しないと思い込んでいる。

悩んでいるものにとって唯一の現実は自分の悩みである。隣にその人の助けを必要としている人がいることは、彼にとって現実ではない。もし眼の前にいる人が彼にとって現実となれば、彼の悩みも解決の方向に向くのである。

他人も自分と同じように感じたり、願ったりしているのだということがどうしても現実とならない。これが現実となると人とつき合うことが意味を持って来る。悩んでいる人にとって人とつき合うことは意味をなさない。

 

ささいなことを特別な困難と感じてしまう精神構造

自分自身の執着から完全に離れることはできなくても、少しずつ離れていく人は、みな元気になっていく。社会に目を向けはじめた若者はいつも元気にしているが、その若者たちよりずうっといい条件にいながら、悩んでばかりいてジメジメした若者がいる。

片方は自分の人生を開かれた方向に持っていこうとしたのに、片方は自分の中へ、自分の中へととじこもり、自分が得をすること、自分がいい思いをすること、それだけを求めて生きていたのだ。そしてついには、何が何だかわけがわからなくなって悲鳴をあげる。

僕には痛いほどそれがよくわかる。僕自身、悲鳴をあげたんだから──。それで、僕はそうした人たちに生活態度を変えろ! と迫るが、けっして変えない。

このような若者は何か自分だけが特別な困難でも背負っているかのような顔をしている。おかしいのは自分ではなく、周囲の方だと言わんばかりなのである。変わるべきは周囲であると思い込んでいる。

他人の人生に困難はあっても、自分の人生に困難があってはならない、自分の人生には困難はあるべきではないと思い込んでいる。そう思い込んでいるからこそ、ささいなことでも特別な困難と感じて、自分だけが苦労しているというような顔をするのである。自分だけは人と違ってとくべつ得をするべきであると思い込んでいる。

たとえば現代の若者が何かの会にはいる時、どう思うのだろう。もっと何かいいことないか? と思うにちがいない。しかし、こんなことで道が開けるだろうか? 開けはしない。開けるとすれば「この会で自分は苦労してやろう」と思ってはいった人だけが人生が開けてくるのだ。

こころを生き生きと保つために、自分への執着からはなれることがどのくらい大切か、シーベリーという心理学者のあげる例から分かる。

第二次世界大戦中の、イギリスのある消防隊長の話である。その女性は生まれつきおとなしく、それまでは苦労に立ち向かう気など全くなかった。何十年も憂鬱な生活をしていた。家に閉じこもったままで、劣等感にとりつかれ、自分の存在をうしろめたく思っていた。自分の性格をいやがり、容姿のことで悩んでいた。

つまり、自分、自分で心の中は一杯であったのだ。自分の考えには自信が持てず、話をするときにもためらいがちであった。戦争が始まって、イギリスに恐ろしい空襲がくるようになると、彼女は勇敢な消防士になった。

爆撃されたビルから犠牲者を救い出す仕事をした。声は力強く、眼は輝き、彼女は揺るぎない自信に満ちていた。ロンドンのこの小柄な消防隊長は任務にひたむきな人になったのである。

この奇跡は何によってもたらされたのであろうか。いろいろなものを恐れてばかりいた娘を勇敢な女に変えたものは何であったのか。

それは彼女の注意の方向が変わったからである。「注意を向ける方向」を変えるということでこのように変わったのである。

自分のことばかりに向けていた注意、自分が人にどう思われるかということばかりに向いていた注意、自分の体はいま調子いいかどうか、自分は今おなかがすいているかどうか、自分は今疲れているかどうか、自分は今眠たいかどうか、自分は人に軽くみられないかどうか、自分は今、風邪を引きそうでないかどうか、自分は今成功するかどうか、自分は失敗しそうかどうか、自分、自分、自分に向いていた注意。

その注意を自分の職務に向けた。自分の職務を考えることに向けた。自分はうまく話せるかどうかから、自分の職務をどう実行するかどうかに注意を向けた。それが彼女の心と、体に刺激を与えたのである。

【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

 

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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