読解力はどう養われるか? 『ごんぎつね』を読んだ子どもの予想外な一言
2023年07月12日 公開
昨今、子どもの読解力の低下が問題視されています。子どもの読解力を伸ばしたい親や、ビジネスに役立てるために読解力を鍛えたい方は増えていますが、そもそも読解力とはなにか、そして物語を読むことの効用は何なのでしょうか。コンサルタントの河村有希絵氏が解説します。
※本稿は『思考の質を高める 構造を読み解く力』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を一部抜粋・編集したものです。
物語を読み解くことの効用
物語文は、説明文と並んで国語の重要題材です。なぜでしょう?
赤ちゃんのころから読み聞かせられる「お話」は物語です。幼稚園や保育園で手にする絵本も大半は物語で、文字が読めるようになって接する多くの本は物語でしょう。物語の先には小説が待っています。映像になればドラマやアニメ、映画となります。
物語や小説は、自分が身の回りの世界では体験できないことをその中で体験させてくれます。その内容や、疑似体験を通じて、人生を生きる上での様々なことを教えてくれ、豊かにしてくれます。その入り口のひとつが、学校で扱う物語文です。
物語文を国語で扱うことの第一の意義は、物語・小説への入り口を用意することであり、将来物語や小説を読んで人生を豊かにする助けとなることであると思います。そのためには、子どもには物語を楽しく読むこと、感じることを体験してもらうべきでしょう。
しかし、国語の授業がややもすると、読み方の(ありもしない)「正解」を押しつけ、逆効果となってしまう場合があることは否定しません。
私がここでお伝えしたいのは、物語を楽しむことで得られる副産物についてです。学校で物語文を読むことで得られるのは、小説を楽しめるようになることだけではありません。人物像を読み取ること。場面、場面における登場人物たちの心情を読み取ること。その場の空気を読み取ること。
これらが、物語文の読解から得られる力です。これらが読み取れるということは、小説を楽しめることの大切な要素でもありますが、それ以外にも実生活に生きる力となります。
『ごんぎつね』という物語、ご記憶にあるでしょうか。長らく小学校の国語の教科書に登場していた日本の物語です。
ひとりぼっちでいたずら好きの子ぎつね、ごんは、年老いた母親と暮らす兵十にいろいろないたずらを仕掛けます。ある日、兵十の母親が亡くなり、自分のいたずらのせいで兵十が母親の最後の望みを叶えてあげられなかったことをごんは知りました。それからごんは、罪滅ぼしのようにこっそりと兵十のもとに栗やきのこを届けます。
それらを神様からの贈り物と思っていた兵十は、ある日、うちに忍び込んできたごんに気づき、火縄銃で撃ち殺してしまいました。ごんに近づいて、栗に気づいた兵十は驚き、「ごん、お前だったのか、いつも栗をくれたのは」と言って後悔します。ごんは頷いて息絶えました、というお話です。
読解に正解・不正解はない
ある学校の国語の授業で、教師が「なぜ、ごんはいたずらばかりするのか?」とクラスに質問しました。
多くの子どもたちが「ひとりぼっちだから」「さびしいから」という趣旨の回答をする中で、ある子どもが、「違うよ、ごんは悪い子だからです」と答えました。
この子どもは母親と二人で暮らしていて、母親が働いている間は一人で過ごすことが多い子どもです。そしていたずらをすることも多い子でした。ごんと似た境遇なので、感情移入をしやすいのです。
この子は一人で遊ぶことには慣れていて、特段さびしいとか、自分がかわいそうな子だとは思っていません。周りに友達がいれば遊ぶし、大人がいれば普通に話すので、ごんも自分もたまたま一人の時間が多いだけです。そしていたずらをすると、「悪い子」と言われるのです。
この授業でのやりとりから、何を考えますか? ごんは悪い子だからいたずらばかりする、というのは、多数決により不正解、あるいは解釈として正しくないのでしょうか? この子どもは読解力が低いのでしょうか? ごんに境遇が似ている子どもの、「悪い子だから」という解釈をどう扱えばよいのでしょうか?
いたずらを重ねるのは悪い子、と言われているこの子どもの境遇自体の評価は置いておくとして、この子どもは、客観的に見ればやはりさびしいのかもしれません。その状況に慣れすぎて、多くの子どもが「さびしい」と思う心の状態をもはや「さびしい」と認識していないだけなのかもしれません。
ちなみに、別の機会には、教師が「ごんが兵十に栗やきのこを届けたのはなぜ?」と質問しました。
これにはまた多くの子どもが「悪いことをしたと思ったから」「兵十がひとりぼっちになってかわいそうだと思ったから」と答えましたが、先ほど「悪い子だから」と答えた子どもも例外ではありませんでした。「ひとりぼっち」はやはり「かわいそう」だとは認識しているのです。
読解力を考える上で、私はこの子どもの解釈を尊重すべきだと思います。
大多数は"よく聞く話""よく聞く文脈"から、「さびしいから」と考えるけれども、本当にその立場・境遇を知っている者からすると、主観的には少し違うのだ、ということを認める。どちらが正解、不正解ということではなくて、いろいろなものの考え方や感じ方があることを知る。
本当に他者の立場に立とうとするなら、可能な限りその背景や経験を知り、推し量り、共感する必要があることを知る。そして、それを実践していく。これが読解力の目指すところであると私は考えています。