アメリカの飛行中尉を助ける(69歳)
――疎開先に不時着したB29。天風はアメリカ兵を人間扱いした。
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<天風の言葉>
あくまでこの戦争に反対しなきゃいられない私の気分は、どんな場合であっても、この戦争に少しでも賛成するような言葉は吐けません。 (『心に成功の炎を』)
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1941(昭和16)年12月の逸話である。天風会京都支部で講演し、そのあとで開かれた酒宴の帰りぎわであった。天風は玄関で靴を履きながら、「外国の標識をつけた飛行機が来ることになったね」と言った。
周りの人は何のことか首を傾げたが、その翌朝、真珠湾攻撃のニュースが報じられた。天風の言葉を聞いていた人たちは、これを予知だと受けとめている。
天風は戦争には反対であった。あるとき、恩師・頭山満とともに、修猷館時代の後輩である広田弘毅(国家の大事を相談する重臣会議メンバー)に、太平洋戦争についての憂いを伝えた。
それだけではない。時の総理大臣・東条英機にも二度にわたって戦争終結を進言したが、東条は怒りを露わにするだけであった。「激昂すると、ブルブル震える男だね」と、天風は笑ったという。以上の逸話は、門人の橋田雅人(歯科医)による(『哲人 あの日あの時 京都編』)。
1945(昭和20)年、本郷にあった広大な屋敷が取り払われ、天風は疎開する。同年5月25日、三度目の東京大空襲の翌明け方、疎開先の茨城県の田んぼにB29が不時着した。
発見した住民が、搭乗員の中尉を寄ってたかって袋叩きにし、荒縄で縛って交番所に引っ張ってきた。通りかかった天風は、「おまえたちの息子が敵地でアメリカ人に捕まり、同じ目に遭って危害を加えられたとする。後で聞いたら、おまえたちは嬉しいか」と問う。住民たちは黙ってしまった。
憲兵隊に引き渡すとき、「武士道は敵を愛するところにある。(中略)本部からどんな命令がこようとも、おまえの手元にある間だけは不自由なく、お客様扱いにして、この人の一生のよい思い出をつくってやれ」(『心に成功の炎を』)と頼んだ。
戦後、そのアメリカ兵は命の恩人である天風を捜すためにやってきた。天風は、超国家的な視点から人と国を考えていたのだろう。