日々「他人の期待に応えなければならない」というプレッシャーを感じている人は少なくないだろう。しかし、哲学者である岸見一郎氏は「期待に応えるための仕事をするな」と説く。自分の人生を生きるための考え方とは?
※本稿は、岸見一郎著『つながらない覚悟』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
期待に応えるために仕事をしない
若い人が職場で初めから力を発揮できることは少ない。すぐに成果を出せなければ職場から追い立てられるのなら、じっくり時間をかけて創造的な仕事をすることは難しい。
大学の教師も、毎年何本も論文を書き、学会で発表しなければならない。講義はもとより、会議を始め研究以外の仕事も多々あるので、じっくり研究に打ち込むことは難しい。
私が学生の時、30年間、一本の論文も書いていないという教授がいると聞いて驚いたことがある。その話を今も覚えているのは、そのような人は他にはいなかったからだが、業績がなくてもすぐに大学を追われることがなければ、じっくりと研究に打ち込むことができるだろうとその時思ったことを覚えている。
そのようなことを許せば、仕事をしなくなる人が出てくるのではないかと会社や大学は恐れるのだろう。しかし、待つしかない。待つことには勇気がいる。成果を出せる保証はないからだ。
しかし、すぐに顕著な結果を出せなければ仕事を失うという状況では、研究者が論文を剽窃するというようなことが起こる。これは学生が試験でカンニングをするのと同じである。
このような人たちは結果さえ出せばいい、出さなければならないと考えて不正行為をするのだが、そうすることで研究者として認められたとしても、それ以降も優れた結果を出せないということが起きる。学生であれば、大学に入学できたとしても、勉強についていけなくなってしまう。企業でも同じことが起きる。
しかし、不正行為をするのは結果を出せないからだけではない。結果を出せないのならさらに研究するしかないが、剽窃してまでも成果を出そうとするのは、職を失う恐れがあるということにくわえて、人からよく思われたいからである。優秀な子どもだという親の属性化に応えようとして生きてきた人は、学業を終えて仕事についてからも優秀であると認められたいのである。
人の期待に応えなければならないと思う人は自分にしか関心がない。自分の才能を人のために使おうとは思っていない。成果はすぐに出せるわけではないので努力が必要である。自分がどう思われるかしか関心がない人は、最終的には力を発揮できないで終わるだろう。
人からどう思われるかを気にしない
困っている人がいれば、それが誰であるとか、また、誰かからの強制だったり義務感からでもなく、ただ助けたいと思うから助けるのが、人と人との真のつながりのあり方である。
ところが、困っている人を見かけた時に、すぐに駆け寄らず、他の人からどう思われるかを気にする人がいる。電車の中で高齢の人が立っているのを見た時、ただ席を譲ればいいのに、そうすることをためらってしまう。席を譲られたくないと拒否されたらどうしようと考えているうちに、その人が電車から降りてしまい、席を譲る機会を逸してしまうこともある。
席を譲ろうとするとまだ席を譲られるような歳ではないと、怒り出す人がいるかもしれない。しかし、自分が席を譲りたいかだけを考えればいいのであり、その申し出を受け入れるかどうかは相手が決めることである。
相手が感謝して着席したら嬉しいだろう。しかし、席を譲る前にどう思われるかを気にし、相手から感謝してもらえそうな時だけ席を譲るというのはおかしい。
また、自分が人を助けている様子を他の人が見ているかとか、他の人が自分をどう評価するかを考える人もいる。そのような人は誰も見ていなければ、助けを必要とする人を助けようとしないかもしれない。
自分が席を譲ることが相手の助けになるかどうか。それだけが問題である。感謝されるかどうかや、その行為を他の人に賞賛されるかどうかは考える必要はない。
自分でない自分になっても意味はない
今の時代は、あらゆる職種で明るく前向きであることが求められているように見える。就活中の若者も皆明るく振る舞うよう努めている。採用されるために常とは違う自分を演じてみても意味がないと私は思うが、採用を勝ち取るためには、無理に明るく振る舞おうとする人もいるだろう。
たとえ理不尽なクレームをぶつけられても、相手が顧客であればにこやかに対応しなければならない。どれほど不愉快に感じても、感じのよい応対をしなければならない。
こうして、フロムのいう「自分のもの」でない感情、感じのよいパーソナリティを演じていると、その感情が自分のものになり、何があってもにこやかに振る舞える人になる。それは本当の自分ではないはずだが、何が本当の自分かわからなくなってしまう。
三木清は虚栄心について、次のようにいっている。
「虚栄心というのは自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッションである。それは仮装に過ぎないかも知れない。けれども一生仮装し通した者において、その人の本性と仮性とを区別することは不可能に近いであろう」(『人生論ノート』)
親切な人、いい人を演じれば世間体がいいと考えて仮装を続けていると、他の人から見るとその人は親切な人、いい人になってしまう。人は対人関係の中で生きているので、その対人関係を離れて性格というものを考えることはできない。どう振る舞うかは誰の前にいるかによって変わる。
しかし、そうであっても、いつも人からどう思われるかということばかり気にかけていると、三木の言葉を使うと「本性」と「仮性」の区別がなくなってしまう。
また、職場で避けて通れない不快な事態のために内心イライラしていても、ニコニコと応対を続けていると、いつしかそれが本当の自分だと思い込んでしまうかもしれない。会社は個性を求めていないので、会社が求めている「人材」であることに疑問を感じた社員は、いつでも取り替え可能だと脅されるかもしれない。
自分は明るいと思っている人でも、その明るさは本来の性格ではなく、会社が求める人材になるために、明るい自分を演じようと決心しているだけかもしれない。
これは仕事の場面だけではない。どんな対人関係においても、協調性があり社交的、外交的であることが求められる。しかし、そのような人になるために個性は邪魔になる。一部の人とだけ親しくなるのではなく、どんな人とでも仲良くするためには、人に合わせる必要があるからである。
こうして、自分ではない自分を演じている人も、社会とのつながりを強制されている。わざわざ人とぶつかる必要はないし、人から嫌われようと思う必要もないが、自分が自分でなくなり、個性をなくしてまで仕事をする必要があるだろうか。
他者に認められようと思わない
他者の期待に合わせて生きる人は、他者に認められようとして、他者に依存する。自分のしたいことがあっても人から気に入られたいので諦めてしまう。また、認められるとわかれば行動を起こすが、そうでなければ何もしない。認められるためなら行動するが、それが正しいとは限らないし、自分で判断できなくなってしまう。
他人から暗いといわれ、自分でもそうだと思っている人は多い。他人からの属性付与を受け入れたということである。
そんな人に私は、あなたは自分が暗いというけれども、暗いのではないという話をよくしてきた。あなたは自分の言動が人にどう受け止められるかを常に意識しているので、少なくとも故意に人を傷つけることをしてこなかったのではないかと問うと、そうだという答えが返ってくる。故意に傷つけないというのは、自分ではそのつもりがなくても、人を傷つけることはあるからである。
続けて、私はこういった。人を傷つけないでおこうとするあなたは「暗い」のではない、「優しい」のだ、と。暗い自分は受け入れられなくても、優しい自分なら受け入れられる。そんな自分であれば好きになれる。これは、自分に価値があると思えるということである。
自分は優しいと思えたら、対人関係の中に入っていく勇気を持てるが、見方を変えれば、対人関係の中に入っていかないために、他人からの「暗い」という属性付与を受け入れていたのである。対人関係の中に入っていこうとしなかったのは、人と関われば傷つくことがあるのを恐れてきたからである。
自分を優しいと見れば、対人関係の中に入っていけるが、ただ自分についての見方を変えることが重要なのではなく、他者もまた故意に人を傷つける人ばかりでないことに気づいてほしいのである。
優しいという属性を付与されることで自分について違う見方ができるようになり、それまで自分の短所や欠点しか見ようとしてこなかった人が自分を受け入れ、自信を持てるようになる。違う自分になったのではない。しかし、自分について違った見方ができるようになれば、事実上違う自分になったといっていいくらいである。
しかし、これも属性付与であり、評価であることに間違いない。評価は自分の価値や本質とは違う。評価が自分の価値を高めるわけではなく、低めるわけでもない。
だから、カウンセラーも含め他の人が自分について思いもよらない肯定的な属性付与をした時でも、無批判に受け入れてはいけない。最終的には、自分で自分の価値を受け入れるしかない。しかし、それまで思ってもいなかった、他者からの自分に価値があると思える評価を一度受け入れる勇気を持ちたい。