松下幸之助が、高額で買った「ラジオの特許を無償で公開」した理由
2024年06月04日 公開
一代で世界的企業を築き上げ、"経営の神様"と呼ばれた松下幸之助だが、成功の陰には数々の感動的なエピソードがあった――。「それだけつくっておって、まだわからんのか」「きみのその考え方が不良を生んどるんや」...。幸之助が物づくりにかけた思いとは? 4つのエピソードを紹介する。
※本稿は、PHP理念経営研究センター編著「松下幸之助 感動のエピソード集」(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
電池が語りかけてくる
第二次世界大戦後の混乱期には、原材料も乏しく、乾電池にも不良が出ることがしばしばあった。
そんなある日、乾電池工場を訪れた幸之助は、責任者から不良が出る状況について説明を受けたあと、不良の乾電池を2、3ダースとコードのついた豆電球を10個ほど自宅に持ち帰った。
翌早朝7時。幸之助はすぐに来るようにと、電話で責任者を自宅に呼んだ。責任者が訪れると幸之助は、まだ蒲団の中にいた。その枕元にはあかあかと豆電球をつけた乾電池がずらりと並べられていた。
「これを見てみい。これはきのうきみのところから持ち帰った不良の乾電池やで。きみは、アンペアが低いからあかんと言うとったが、みな直るで」
「社長、どんなにして直されたんですか」
「きみな、物というもんは、じっとこう前に置いて1時間ほどにらめっこしておったら、どんなにしてくれ、こんなにしてくれと言いよるものや。きのう、わしが帰って、飯を食べて風呂に入ってから、前に電池を並べてじっとにらめっこしてたら、"炊いてくれ、炊いてくれ" "温めてくれ、温めてくれ"と言うのや。それでコンロで湯沸かしてな、温めたんや」
見ると、確かに、横にコンロと手鍋が置かれている。
「きみら屁理屈ばかり言ってるけど、言うだけやなしに実際にやらないかんのやで。自分の一所懸命につくったものを抱いて寝るくらいの情熱を持って見とったら、それは、必ず何かを訴えよる。わしみたいに電池の理屈をよく知らんもんでも、解決方法が見出せる。きみは何年乾電池をつくってるんや」
「14、5年でしょうか」
「それだけつくっておって、まだわからんのか。だいたい、電池をつくっておったら、不良が出るもんやと頭から決めてかかってるのやないか。ほんまはな、不良が出るほうがおかしいのや。だから不良が出たらどうするか、どこに誤りがあったのか、よう考えなあかんのや」
責任者は工場に帰ると、すぐ乾電池の製造工程の見直しに取り組んだ。このことがきっかけとなって、ぐっと不良を少なくすることができたのである。
*多くの創業経営者が持つ常識を超えた集中力、ほんとうに商品から語りかけてもらえるような情熱、距離感で事にあたると、思いがけないアイデアに行きあたる。セレンディピティ(偶然の幸運を生む能力)はしばしば多くの名経営者が体験している。
命がけの物づくり
あるとき、製品検査本部の責任者が、幸之助に呼ばれた。
「近ごろ、ときどき不良が出ているようだが、きみのところではいったいどういう製品検査のやり方をしているのかね」
「はい、2年前まではできあがった新製品をいろいろとテストしておったのですが、不良の原因を分析してみますと、結局、設計や試作の段階に問題がある場合が多かったのです。そこでわれわれの審査を、製品ができあがってからするのではなく、もっと早い段階で実施して、不良が出ないように努めております。いわゆる川下の問題を、川上にまでさかのぼって審査をし、不良防止をはかっているのです」
しばらくじっと考えていた幸之助は、やがて口を開いた。
「きみ、そらあかんで。わしは、きみのところで、そういう設計とか量産試作品とかの審査をやるところに、不良が起こってくる原因があるんやないかと思う。というのは、今は新製品の設計や試作品ができたら、みな製品検査本部へ持ってくるやろう。それをきみのところがオーケーしたら、これでいいということで、つぎに進む。
その結果どうなっているかというと、製品検査本部が審査をさかのぼってすればするほど、みんなが製品検査本部という一つの機関に依存してしまっている。そこに安易に物が生産され、不良が出る元凶があるんや。
だからきみのところでは、途中での審査はいっさいやめたまえ。新製品をつくっていよいよこれから発売するという時点で、きみのところが味見したらいい。この商品を出していいか悪いかということをきみが判断して、これは出したら具合が悪いと思ったらストップをかけたらいい」
「しかし、そうするとその段階では、もう材料も手配しています。金型もつくっています。生産体制も組んでいますし、発売予告もやっています。そういうときにストップをかけたら、会社は膨大な損害をこうむることになりますし、対外的にもご迷惑をおかけすることになります。ですから、お言葉を返すようですが、私どもはさらに一段と川上にさかのぼってやっていきたいと思うのです」
「いかん、いかん。きみのその考え方が不良を生んどるんや。きみのところでそういうことをやると、本来命がけで物をつくらなければならない事業部長が製品検査本部に依存することになる。それでは、いい物ができるはずがない。確かに、きみのところでストップをかけたら、莫大な損になるかもしれん。
しかし、事業部長が命がけで物をつくったら、そんなことは滅多に起こらんよ。また万一、ストップがかかって大きな損害が出たとしても、その事業部長は二度とそういう損害を起こすような愚は犯さないようになるよ」
ラジオの特許を無償で公開
昭和初期のことである。"特許魔"といわれる発明家がいて、アメリカの特許を先に読み取っては日本で登録し、それを売るというようなことをしていた。ラジオの重要部分の特許権もその人が所有し、高周波回路で多極管を使用するラジオは、すべてこの特許に抵触するため、各メーカーはラジオの設計に大きな支障を受け、業界の発展がはなはだしく阻害されていた。
松下電器も昭和6(1931)年にラジオを開発し、7年になって、いよいよこれから大いに生産販売しようとしたときに、この特許に抵触した。事態を憂慮し、わが国ラジオ業界発展のために実に遺憾であると考えた幸之助は、ついに意を決してその発明家のところへ出かけ、「特許を売ってほしい」と申し出た。
発明家は30歳代半ばくらい、少し傲慢な感じの人であった。その態度に怒りを覚えつつも、幸之助は、売る気のまったくないその発明家と我慢強く交渉し、結局2万5000円という大金で買い取った。それは当時の松下電器の規模からすれば、法外な金額であった。
特許を買い取った翌日、幸之助は、それを無償公開する旨を新聞で発表した。
"こういうものは業界みんなで使うべきもの。業界の発展のために使われるべきだ"という考えからの行為であった。この特許の公開は、業界にたいへんな驚きと賞賛をもって迎えられた。"業界始まって以来の大ホームランである"と、業界各紙で、壮挙、美挙として賞賛の言葉が与えられた他、ラジオ業界全体の発展に大きな貢献をしたとして、各方面から感謝状や牌が贈られた。
初めての東京出張
商売を始めてまもないころ、幸之助は当時つくっていた二灯用差し込みプラグを東京でも売りたいと考えた。そこで、それまで一度も行ったことのない東京へ出かけ、地図を片手に一日中問屋をめぐり歩いた。初めて訪問する問屋で、大阪から持ってきた商品を見てもらう。
「いかがでしょうか。売っていただきたいのですが」
問屋は商品を手にし、それをためつすがめつじっくりと調べてから、幸之助の顔を見て言った。
「きみ、これはいくらで売るのかね」
「原価が20銭かかっていますので、25銭で買っていただきたいのです」
「25銭か。それなら別に高くはない。高くはないけれども、きみは東京で初めて売り出すのだろう。そうであれば、やはり少しは勉強しなければならないよ。23銭にしたまえ」
こう言われて幸之助は、"東京での販路をぜひ開拓したいし、初めて東京に売りに来たことでもある。だから、この要望にこたえよう"と思った。しかしつぎの瞬間、そうさせないものが心に働いて、こう答えていた。
「原価は20銭ですから、23銭にできないことはありません。しかし、ご主人、この商品は私を含めて従業員がほんとうに朝から晩まで熱心に働いてつくったものです。原価も決して高くついていません。むしろ世間一般に比べれば相当安いはずです。ですから、25銭という価格も決して高くはない、むしろ安いと思うのです。
もちろん、ご主人が見られて、この商品は値段が高いから売れないだろうと考えられるのであれば、それはしかたがありません。しかし、そうではなくて、これで売れると思われるのであれば、どうかこの値段でお買いあげください」
じっと聞いていた問屋の主人は、
「よしわかった、きみがそこまで考えているのなら、25銭で買うことにしよう。もちろんこの値段は高くはない。これで十分売れると思う」
と言って、持っていった商品を値引きなしの言い値で買ってくれた。