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「すべて松下電器の落ち度です」代理店の責任者を涙させた、松下幸之助の謝罪

PHP理念経営研究センター

2024年06月17日 公開

「すべて松下電器の落ち度です」代理店の責任者を涙させた、松下幸之助の謝罪

一代で世界的企業を築き上げ、"経営の神様"と呼ばれた松下幸之助だが、成功の陰には数々の感動的なエピソードがあった――。稲盛和夫氏に衝撃を与えた言葉、松下電器系列の販売会社、代理店の責任者たちを涙させたスピーチ...。3つのエピソードを紹介する。

※本稿は、PHP理念経営研究センター編著「松下幸之助 感動のエピソード集」(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

まず願うこと

"川にダムがなければ、少し天候が狂っただけで、洪水になったり、干魃になったりする。しかしダムをつくれば、せきとめ溜めた水をいつでも有効に使うことができる。それは人間の知恵の所産である。経営にもまたダムがなければならない。

経営者は『ダム式経営』、つまり余裕のある経営をするよう努めなければならない幸之助は、京都の中小企業経営者が集まった講演会で、持論の"ダム式経営"の勧めを説いていた。

話が終わったとき、一人の経営者が質問をした。

「今ダム式経営が必要だと言われました。が、松下さんのように成功されて余裕があるところではそれが可能でも、私どもにはなかなか余裕がなくてむずかしい。どうしたらダムがつくれるのか教えてください」

「そうですなあ、簡単には答えられませんが、やっぱり、まず大事なのはダム式経営をやろうと思うことでしょうな」

このときの聴衆の一人に、今は世界的な企業に成長している会社の経営者がいた。創業して4、5年、まだ経営の進め方に悩んでいたころである。この幸之助の答えにその経営者は、身の震えるような感激と衝撃を受けたという。のちに、幸之助と対談した際、彼はこう言っている。

「そのとき、私はほんとうにガツーンと感じたのです。余裕のない中小企業の時代から"余裕のある経営をしたい、おれはこういう経営をしたい"と、ものすごい願望を持って毎日毎日、一歩一歩歩くと、何年か後には必ずそうなる。"やろうと思ったってできませんのや。

何か簡単な方法を教えてくれ"というふうな、そういうなまはんかな考えでは、事業経営はできない。"できる、できない"ではなしに、まず、"こうでありたい。おれは経営をこうしよう"という強い願望を胸に持つことが大切だ、そのことを松下さんは言っておられるんだ。そう感じたとき、非常に感動しましてね。

ただ多くの聴衆の中には、そういう精神的なものについてはあまり好きではないものだから、何かもっと簡単な、アメリカ的な経営のノウハウでも教えてもらえるのではないかと期待していた人も多かったようですがね」

*この経営者とは、京セラ創業者・稲盛和夫氏のことで、今やよく知られたエピソードとなっている。

 

乾電池を1万個タダでください

「ハハア!? タダで乾電池を1万個、あなたにあげる?」

幸之助の計画を聞くと、東京の乾電池会社の社長はそう言って驚いた。驚くのも無理はない。幸之助の計画とは、新しい自転車用ナショナルランプを開発したが、その販売にあたっては、宣伝見本として各方面に1万個を配りたい、ついてはその見本に入れる乾電池1万個をぜひ提供してほしい、というものであった。

「松下さん、そりゃ少し乱暴じゃありませんか」

「社長さん、あなたが驚かれるのも無理はありませんが、私はこの方法に非常な確信を持っているのです。しかし、1万個もの電池を故なくタダでもらおうとは思っていません。それには条件をつけましょう」

その条件とは、今は4月だが、年内に乾電池を20万個売る。そのときに1万個まけてほしい。もちろん売れなかった場合にはその代金は支払う、というものであった。

「私が商売を始めてからこのかた、こんな交渉はただの一度も受けたことがない。よろしい、年内に20万個売ってくれるのなら、1万個はのしをつけてきみにあげよう」

いよいよ乾電池とともにナショナルランプ1万個を市場に配ることになった。しかし、1万個という数はいかにも大きい。また、ランプそのものが高価なものである。あげるにしても、もらうにしても1個ずつであった。

だから、1000個ほども配ったと思う時分には、その見本が注文を呼んで、次々と注文が殺到した。そしてその年の12月までに、松下電器は47万個の乾電池を引き取っていたのである。

翌昭和3(1928)年1月2日、幸之助の家を訪ねる人がいた。紋付羽織、袴に威儀を正した乾電池会社の社長がわざわざ東京から大阪まで出向いてきたのである。

「松下さん、きょうはお礼を言いに来ました」

社長は感謝状を渡すとともに、「わずかのあいだに47万個も販売されるというのは、わが国電池界始まって以来ないことだ」と口をきわめて賞賛し、幸之助を感激させたのだった。

 

涙の熱海会談

昭和39(1964)年当時といえば、各業界とも深刻な不況に直面しつつあった。電機業界もその例外ではなく、全国の松下電器系列の販売会社、代理店も厳しい状況にあるという。

ただならぬ事態を察知した幸之助は、一度その実情を自分の耳で確かめてみたいと、その年の7月、熱海ニューフジヤホテルに全国の販売会社、代理店170社の責任者を招いて懇談会を開いた。いざ会談のフタを開けると、集まった販売会社、代理店の責任者の口からは、松下電器の行き方に対する非難が異口同音に発せられた。

「うちは松下以外のものは扱っていない。松下のものだけだ。それで損をしている。赤字だ。どうしてくれるんだ」

「親の代から松下の代理店をやっているのに赤字続きだ。いったい松下はどうしてくれるのだ」

中には儲かっている販売会社、代理店もあるが、それは一部だけで、会談の1日目はそうした不満の声を聞きつつ終わった。

2日目に入っても、出てくるのは1日目同様、松下電器に対する不満ばかりである。それに対し幸之助も反論した。

「赤字を出すのはやはり、その会社の経営の仕方が間違っているからだと思います。皆さんは松下電器に甘えている部分がありはしませんか」

そうこうするうちに、2日間の予定で開かれた会談は1日延長され、3日目に入った。しかし、3日目になっても苦情は出続けた。幸之助はこのままで終わってはいけない、何か結論を出すべきであると考えたが、結論といってもどのような結論があるのか。相変わらず議論は平行線をたどっている。そんな中で幸之助は、これまでのお互いの主張を静かにふり返ってみた。

"不平、不満は、一面、販売会社、代理店自身の経営の甘さから出てきたということもできる。しかし、考えてみると、松下電器にも改めねばならない問題がたくさんあるのではないか。責任は松下電器にもある。いや責任の大半が松下電器にあるのではないだろうか"

幸之助は、壇上から語りかけるように話しだした。

「皆さん方が言われる不平、不満は一面もっともだと思います。よくよく考えてみますと、結局は松下電器が悪かったのです。この一語に尽きます。皆さん方に対する松下のお世話の仕方が不十分でした。不況なら不況で、それをうまく切り抜ける道はあったはずです。それができなかったのは松下電器の落ち度です。ほんとうに申しわけありません。

今私は、ふと昔のことを思い出しました。昔、松下電器で電球をつくり、売りに行ったときのことです。『今はまだ幕下でも、将来はきっと横綱になってみせます。どうかこの電球を買ってください』、私はこうお願いして売って歩きました。皆さんは、『きみがそこまで決意して言うなら売ってあげよう』と言って、大いに売ってくださいました。そのおかげで松下電器の電球は一足飛びに横綱になり、会社も盛大になりました。

そういうことを考えるにつけ、今日、こうして松下電器があるのは、ほんとうに皆さんのおかげです。私どもはひと言も文句を言える義理ではないのです。これからは心を入れ替えて出直します」

そう話しているうちに、幸之助は目頭が熱くなり絶句してしまった。会場もいつしか静まり返り、出席者の半分以上は、ハンカチで目を押さえていた。3日間にわたる激論の結果、懇談会は最後に心あたたまる感動のうちに終わった。販売会社、代理店、そして松下電器はお互いに気持ちを引き締め合った。

この会談のあと、8月1日から、病気休養中の営業本部長を代行した幸之助を中心に、新しい販売制度が生み出され、その新制度のもとに協力体制が敷かれて、1年後には事態は好転した。

 

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