松下幸之助は、23歳で松下電気器具製作所を立ち上げたあと、2度の倒産危機に瀕している。彼が逆境に呑まれず、経営を続けられた基盤となる考えはどのようなものか。
※本稿は、『THE21』2012年10月号より、内容を抜粋・編集したものです。
逆境に対しても素直に向き合う
「逆境 ― それはその人に与えられた尊い試練であり、この境涯にきたえられてきた人はまことに強靭である」
松下幸之助が、著書『道をひらく』で述べている言葉だ。
これは本人が、心底実感していたことだったのだろう。自分自身が、幼い頃から何度も逆境に立たされてきたからだ。
松下幸之助は、わずか9歳で、大阪の火鉢店へ丁稚奉公に出された。小地主だった父が米相場で大損し、先祖伝来の土地を失い、生活が因窮していたからだ。
1918年に、23歳で松下電気器具製作所を立ち上げたあとも、2度の倒産危機に瀕している。1度目は、1929年の不況で販売が急減したとき。2度目は、太平洋戦争の終戦後だ。
2度目はとくに深刻だった。戦闘機や航空無線などの軍需生産の売掛金が回収不能になり、海外の子会社や工場も軒並み失った。さらにGHQから財閥とみなされ、会社解体の危機に直面した。さすがの幸之助も「進退はもう絶体絶命やった」と振り返っている。
だが、苦境に陥るたびに、幸之助ははい上がってきた。なぜ、それができたのか。理由の1つは、幸之助のいう「素直な心」をもっていたことだろう。
冒頭の言葉に続けて、幸之助は次のように述べている。
「要は逆境であれ、順境であれ、その与えられた境涯に素直に生きることである。謙虚の心を忘れぬことである。素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は自惚を生む。逆境、順境そのいずれをも問わぬ。それはそのときのその人に与えられた1つの運命である。ただその境涯に素直に生きるがよい」
幸之助のいう「素直」には、多様な意味があるようだが、1つは「与えられた運命に対して、抗うことなく、真摯に向き合う」ということがある。苦しいことでも、つまらないと感じることでも、逃げることなく、真正面から取り組めば、道はひらけるというわけだ。
丁稚奉公時代から自然と、「素直な心」が身についていたのだろう。同じ年の商家の坊ちゃんが中学へ通う一方で、幸之助は自転車店で、朝晩のふき掃除や陳列商品の手入れといった雑用をしていた。普通ならばその落差に卑屈になっても不思議ではないが、幸之助は、「僕は掃除するのが当たり前」と思っていたという。
5年間奉公し続けると、接客やマーケティングなどの商売の知恵が身についた。幸之助は丁椎先で起業家の基礎を築き上げたわけだ。
その成功体験があったからか、幸之助は、逆境に対して自暴自棄になることはなかった。終戦後、GHQによって会社解体の危機に直面したときも、50回以上東京へ出張し、粘り強く交渉した。その結果、ガンコなGHQも徐々に理解を示すようになったという。
真のリーダーとは周囲を立てる人だ
数々の逆境を乗り越えられたもう1つの理由として、「人とのつながり」が挙げられる。
松下電器の草創期を支え、のちに三洋電機を創業する井植三兄弟、GHQと粘り強く交渉し続け会社解散の危機から救った高橋荒太郎氏、地域で松下製品を販売した販売代理店の人々など、幸之助は多くの協力者に支えられてきた。
人に恵まれたのは、幸之助自身が周囲の人を大事にしてきたからだろう。とくに弱い立場の人たちを尊重してきたエピソードには事欠かない。
社員教育の場では、「自分の部下が100人いるのなら、自分の偉さは本当は101番目なんだと思える人が真のリーダーや」と諭してきた。また、販売会社および代理店の社長を集めた懇談会では、販売会社や代理店の社長のリボンよりも松下の役員のリボンが大きいのをみて、激怒したという。
幸之助のすばらしい点は、人を大切にする姿勢が、逆境のときでも変わらないことだ。たとえば、1929年の不況時には、倉庫に入りきれないほど在庫がたまり、数百人の従業員を半減させないと窮状を打開できないほど追い込まれた。
しかし、幸之助は「従業員は1人も解雇してはならぬ。工場は半日勤務として生産を半減するが、従業員には日給の全額を支給する。その代わり、店員は休日返上で在庫品の販売に全力をあげてもらいたい」と決断した。すると、従業月の士気が上がり、苦境を脱することができたのだ。
「嵐のときほど、協力が尊ばれるときはない。うろたえては、この協力がこわされる。だから、揺れることを恐れるよりも、協力がこわされることを恐れたほうがいい」
という言葉のとおり、目先の利益よりも信頼関係を大事にしてきたからこそ、多くの人々が集まってきたのだろう。
ピンチのときほど、周囲はリーダーをよくみて、評価しているものだ。リーダーたる人ならば、逆境のときほど他人を気遣う習慣を見習おう。