
一日の始まりである「朝」を充実させることは、幸運を手にすることにつながる。曹洞宗徳雄山建功寺住職の枡野俊明さんは、著書『幸運は、必ず朝に訪れる。』の中で、朝の習慣がいかに大切かを教えてくれます。
自然に触れ、体を動かすことで、朝、新しい自分に生まれ変わることができると言いますが、それは具体的にどんな良いことがあるのでしょうか? その答えを、同書から詳しくご紹介します。
※本稿は、枡野俊明著『幸運は、必ず朝に訪れる。』(PHP文庫)の内容を一部抜粋・編集したものです
朝は“新しい自分”にリセットされる時間
みなさんは、こんな言葉があるのをご存知ですか。
「まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり」
中国古典の『大学』の中にある言葉ですが、人は日々新しくなる、そうであるから、毎日行いを改めて、新しい(よりよい)自分になるように、努めなければいけない、というのがその意味です。
この言葉に照らせば、人は毎朝新しい自分として目覚めているといえます。それは、朝ごとに新しく命をいただき、新たに生かされるといってもいいかもしれません。そのことを身近に感じるためには、自然との触れ合いがポイントになる、と私は思っています。
考えてみると、現代人は自然から遠ざかる一方ではないでしょうか。一例を挙げれば、住まいも仕事をする環境も冷暖房完備で、夏の暑さ、冬の寒さを肌で感じることが極端に少なくなっています。自然の本源ともいうべき四季の移ろいをほとんど実感しないで暮らしているといっても、けっして過言ではないでしょう。
そんな環境では、朝目覚めたときに、自分がリセットされているという感覚を持てないのも、不思議ではないのかもしれません。
人が自然と一体になって生活していた時代には、夜明けとともに起き、日中はそれぞれの活動で汗を流し、夕暮れには仕事を終えて家路につき、夜が更ける頃には眠りにつくというリズムが保たれていました。
そこでは、新たな朝を迎えるときに、自分もリセットされる、新たな自分になるという感覚が湧き出てきたと思うのです。
もちろん、現代では、そうしたリズムに戻ることは、隠遁生活でもしないかぎり不可能です。しかし、ひとときでも自然に触れることで、リセット感を取り戻すことはできると思います。
朝は、一日の中で四季折々の自然がもっとも色濃く立ち込めている時間です。戸外に出て、その中に身を置くことで、自然と一体になっている自分を感じることができるのではないでしょうか。
自然との一体感は、人もまた自然の一部であるという永遠不変の「真理」に気づくことだといえるでしょう。それが命の原点です。その意味では、朝、自然と触れ合う時間を持つことで、私たちは原点にリセットされるのです。
心も身体も原点に、すなわち、まっさらな状態に、立ち戻ることができる。それこそ朝にしかできないことですし、朝なすべきもっとも重要なことだという気がします。朝の時間をおざなりにすることは、その機会を自ら手放してしまうことに他なりません。
しっかりリセットして始める一日と、前日からのあれやこれやを引きずったままスタートさせる一日とでは、まったく違ったものになるのは、もう説明するまでもないでしょう。ぜひ朝の意義深さに"目覚め"てください。そして、朝を活かしてください。
ゆっくりと散歩する
朝、身体を動かすことの大切さ、自然に触れることの意味については、すでにお話ししました。この二つの要素を併せ持つのが「散歩」です。
自分のペースで無理のない距離をゆったり歩く。すると、頭と身体が目覚めるとともに、肌で季節の移ろいを感じることができます。
代々その地域に住んでいる人は別ですが、社会に出てから新たに居を構えた人は、案外、自分が住んでいる場所の周辺環境を知らないのではないでしょうか。それを知るには散歩が一番です。きっと新たな発見もあるはず。
「あら、こんなところに朝早くからお店を開けているパン屋さんがあったんだ」
「へぇ〜、けっこう綺麗な公園があるじゃない。花壇も手入れがされているし」
そんな発見は心をうきうきさせ、散歩の楽しさを2倍にも、3倍にもしてくれそうです。また、自分が住んでいる場所をよく知ることは、暮らしていく上での安心感にも繋がります。
散歩のポイントは"ゆるさ"です。毎朝必ずしなければならないという義務感を持ってしまうと、できなかったときに心の負担、すなわちストレスになります。雨の日や気分が乗らなかった朝はやめる、というくらいに、ゆるく考えておくのがいいさじ加減だと思います。
散歩の効用についてはさまざまな人が語っています。いくつか紹介しておきましょう。
「最高の癒しは、長い散歩。足のリズミカルな動きが、頭にはった蜘蛛の巣を、きれいさっぱり掃除してくれる」(アン・ウィルソン・シェイフ/米国の精神科医)
「悩みごとは、散歩して忘れ去るのが一番だ。まあちょっと外へ出てみたまえ。ほら、悩みごとなんか、翼がはえて飛んでいってしまう」(デール・カーネギー/米国の著述家)
「愛の幸福な瞬間、そよ風の楽しさ、明るい朝に散歩して新鮮な空気の香りをかぐこと。こういったことが、人生の中にあるすべての苦しみや努力ほどの価値がないと、誰にいえるだろうか?」(エーリッヒ・フロム/米国の哲学者、社会心理学者)
心のモヤモヤや悩みを解消してくれるだけでなく、苦しみと向き合い、それを乗り越える努力をすることに匹敵するもの。それが散歩だ、と人生の先達は述べています。
禅的に考えても、一日一日をきちんと感じて生きていくのに、散歩の意義は大きいといえるかもしれません。みなさんはこんなふうに思うことはありませんか。
「また、今日も昨日と同じような日が繰り返されるのか。なんでこう何の変哲もない日々が続くのかしら?」
変化のない毎日が退屈に感じられる。しかし、同じ日が繰り返されるということなどないのです。どの一日も他の日とはまったく違っています。その日だけの光が射し、風が吹き、雲が流れ、あるいは、雨や雪が降るのです。そして、その日を感じられるのは、人生でたった一度きりなのです。
慌ただしく家を出てバスや電車に乗り、オフィスのあるビル街で仕事をし、同じルートで家に戻ってくる。そんなライフスタイルでは、たった一度きりで、二度と取り戻すことのできない「その日」を感じることができるでしょうか。
できません。そうであるから、毎日が変哲のない同じような日に思えるのです。
しかし、長い時間でなくても、朝、散歩をすると、その日の光を、風を、雲を感じることができます。
「今日の陽射しは昨日よりやわらかいなぁ」
「なんて心地よい風。気持ちを弾ませてくれる風ってあるんだわ」
歩を進めながらそんな思いが湧いてくる。
その日をしっかり感じるとは、きっと、そういうことだと思うのです。
"変哲のない日"とは明らかに違った、その日しかない、確かな一日が実感できるといってもいいでしょう。
先達の言葉を借りて、この項を締めましょう。
「まあちょっと外へ出てみたまえ」