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藤子不二雄A、「夢追い漫画家生活」60年を振り返る



2012年11月29日 公開

藤子不二雄A(漫画家)

※本校は100年インタビューシリーズ 『藤子不二雄A 夢追い漫画家60年』』より一部抜粋・編集したものです。
 

漫画家生活60年をふりかえる……

夢追い漫画家60年僕がプロの漫画家としてスタートしたのは、高校3年生の時、藤本君と2人で合作した『天使の玉ちゃん』からです。

手塚先生の後を描こうと勝手に決めて、毎日小学生新聞へ原稿を送ったのが、たまたま採用されて連載になりました。

この連載は途中で終わりましたが、とにかく原稿料をもらった最初の仕事なので、この時をスタートにしています。昭和26年、1951年の時なので、60年以上前になります。

1954年に藤本君と2人で漫画家を目指して上京、しかし半年後に原稿をおとす、という大失敗をやりました。2年間、ジーッとがまんをして、やっとまた漫画家として復活しました。あたりまえですけれど、それからは一度も原稿をおとしていません。

1959年、日本で最初の週刊少年誌のひとつ、「週刊少年サンデ1」の創刊号から『海の王子』(共作)を連載、ようやく一人前の漫画家としてみとめられるようになりました。

藤子不二雄としての最初のヒット作は1964年、「週刊少年サンデー」に連載した『オパケのQ太郎(共作)』です。テレビのアニメになって、子どもたちの人気者になりました。

『オパケのQ太郎』は僕と藤本くんとの最後の合作です。その後は、同じ藤子不二雄として発表しても、それぞれまったく別々に描きました。

藤本君は『パーマソ』や『ドラえもん』。僕は『忍者ハットリくん』や『怪物くん』を。

手塚先生が『新賓島(しんたからじま)』でデビューされたのは1947年です。それから20年近くたって、漫画界にもいろいろな変化がおこってきました。僕らも新人漫画家から中堅漫画家になってきていたのです。

僕らの後にドンドン若い才能を持つ新人漫画家が現れて、追いかけられているような気持ちになりました、僕も20代から30代になり、焦りが出てきました。いつまで『忍者ハットリくん』や『怪物くん』のような子ども漫画を描いていられるだろうか!?と。

その頃、新しく登場したのが青年コミック誌です。読者も10代から20代と成長してきていて、そういった20代より上の漫画ファンを対象にしたものです。

僕はこの青年コミックに活路を見出しました。ブラック・ユーモア漫画『笑ウせぇるすまん』を描き始めたのがその頃です。『笑ウせぇるすまん』を描いて、ある手ごたえをつかんだ僕は、(まだまだ漫画の世界にはいろいろな広がりがあるぞ! よーし! 今まで誰も見たことのない、読んだことのない漫画を描いていこう!)と未来に自信を持ちました。

『劇画・毛沢東伝』や『魔太郎がくる!! 』『プロゴルファー猿』など、いろいろなジャンルの漫画に挑戦しました。

女性週刊誌に『愛ぬすびと』や『愛たずねびと』を描いたのもその頃です。               

また、僕たちの原点へもどって『まんが道』も描き始めました。これは現在も描いている『愛…しりそめし頃に…』につながっています。

1978年、長い間構想をねってきた『少年時代』の連載を、「週刊少年マガジン」で始めました。これは芥川賞作家・柏原兵三氏の小説『長い道』を、僕の実体験を交えて漫画化したものです。

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