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玄侑宗久/「大目にみる」 - 今、日本人に必要なこと

2012年12月17日 公開

玄侑宗久(作家、臨済宗妙心寺派福聚寺住職)

《PHP文芸文庫『無功徳』より》

かつての日本人は、礼儀正しく挨拶も丁寧、にこにこしながら仕事をする不思議な民族だった。
現代日本は仕事はピリピリ、礼儀もなく無愛想。
分析や計画が綿密になるほど、人はにこにこなどしなくなる。
にこにこするのは、世界を大目でみている証拠ではないだろうか。
 

大目にみる態度が消えかかっている

  今、「大目にみる」というと、なにか悪いことをしたのを見逃すとか、許してあげるみたいな意味で使われるようだ。しかしこの言葉、本当にそういう意味なのだろうか。

 たとえばそのような意味だとしても、世の中には大目にみる態度がどんな場面からも消えかかっている気がする。学校でなにかしでかした生徒など、毎日反省文を書かされ、あまつさえその親にまで反省文を提出させる学校もある。いったいなにをしたの? と訊いたら、黙って友だちの学生服を借りてしまい、それを教師が窃盗だと言い募ったのだそうだ。友だちとの間では「ごめんね」で済んでいるのに、である。

 会社が社会に対してなにかしてしまった場合も、その処分はずいぶん徹底的である。責任者の辞職、役員報酬のカットなどは当然としても、とにかく新しい規則をたくさん追加制定することが多いようだ。いったいこれまで苦労して作り上げてきたシステムはなんだったのか、というほどの内容改変で、「このようなことが二度と起こらないように」というのが、その際の決まり文句である。

 しかし大局的に見た場合、長年かけて作り上げてきたシステムを、そう簡単に放擲していいものだろうかと訝る。最近新潮新書で『「法令遵守」が日本を亡ぼす』という本が出ているが、読んではいないもののタイトルだけで深く賛成してしまう。つまりそのような偏狭で煩雑なだけの法令や細則が、この国には増えすぎている気がして仕方ないのである。

 私が申し上げたいのは、長年かけて築きあげたシステムそのものには自信を失わず、突発的な出来事は大目にみる必要があるのではないか、安易に規則を増やさないほうがいいのではないか、ということだ。

 

 大切なのは「心の平安」だけ、あとのことは「大目にみる」

  最近ラオスに行ってきた。

 驚いたことに、彼の国では、酒やタバコの摂取について、年齢制限はあるらしいが殆んどの人々には周知されていない。

 現地の通訳は「そりゃあ人によっては10歳くらいから酒も飲むし、そのくらいからタバコ吸ってる子供もいますよ」という。これはつまり日本に準えれば、江戸時代の徒弟制度下の徒弟たちとほぼ同じ状況だろう。しかしだからといってラオスで病人や犯罪が多いかというと、そんなことはない。

 ラオスの僧侶たちにも訊いてみたが、酒は瞑想の妨げだから禁止されているが、タバコは別にかまわないらしい。ビエンチャンの大きなお寺の道場長の話では、大切なのは「心の平安」であり、そのための瞑想であって、それ以外のことはどうでもいいのだという。瞑想の姿勢も足の組み方もとくに決まっていないというから、その徹底ぶり、いや、徹底的な不徹底ぶりには驚いた。なんだか型から入る日本文化が嗤われている気にもなった。

 ラオスにおいても最近はコンピューターカフェが始まり、そこで多くの僧侶たちを見かけた。また夜に外出している僧侶もいて、その手に携帯電話を持っている姿も見かけた。

 私自身、今の日本の道場でのIT器具の扱いはどうすべきか、考えてもいたので、道場長にその点も訊いてみた。「このような事態をどう思われますか」と。

 するとその70歳くらいと思える長老は、静かに私の眼を見つめて「諸行は無常です」とおっしゃった。

 加えて、そのうえで苦の発生のシステムを理解し、心の平安に向かって努力をしてさえいれば、あとのことは「大目にみる」というのである。「大目にみる」とはいったいどういう見方なのだろう。

 

 「視」という凝視より、「観」という全体視こそ重要

 私の住む三春町にも住んだことのある一元紹碩 〈いちげんしょうせき〉 という江戸時代の禅僧は、奇妙な墨跡を残した。「観」と「視」とを組合せ、「観」の偏とつくりの間に示偏を挿入して書いたのである。

 宮本武蔵も「観」の目つよく、「見」の目よわく見るべきことを『五輪書』に書いている。

 要するに「視」という凝視ではなく、「観」という全体視こそが重要だと、禅や武道の立場から主張しているのだろう。

 武蔵にも指南した沢庵禅師は、1カ所に心を留めてしまうような見方を「偏に落ちる」と表現しているが、そうならない「観」によって全体を見ないと、世界が見えないどころか、命を落とすというのである。

 私には、この「観」こそ「大目にみる」ことの原型に思えるのだが、如何だろうか。

 現代の日本と同じような資本主義の波が、ラオスにも押し寄せてはいる。しかしそうした状況でも、なにかが根本的に違うと感じたから規則ずくめの日本の現状と並置してみたのだが、どんなふうに感じられるだろうか。

 私なりにその違いを分析してみると……、ああ、まさにこの「分析」という見方がこちらでは優先されているのだ。

 向こうの僧侶はなにより瞑想という全体視の習慣があるし、一般の人々もとにかく体をよく動かしている。分析というより、彼らはもっと直観を大切にして生きているように見えるのである。

 思えば人は成長に伴い、この「分析知」を身につけていく。別な言い方をすれば、科学的な知見ということだろうか。大局的・直観的な見方をとりあえず棚上げにし、物事を限定的に詳細に見詰めることで科学は発達してきた。「葦の髄から天井を覗く」という諺がある。言い方は悪いが、これこそ顕微鏡を覗く科学者の姿ではなかっただろうか。大目にみるどころか、微細に局所的に視ることが科学の立場から長年奨励されてきたということだ。

 しかし物事は分析することで実感や直観から離れやすい。

 分析知を身につけていない子供のほうが、むしろ直観力は鋭いのではないだろうか。

 言葉を扱う人間がこんなことを書いては申し訳ないが、言葉に騙されるのも分析知を身につけた大人だけだろう。

 私は常々子供たちにも選挙権を与えてはどうかと考えている。言葉に左右されず、直観的にその風貌や気配で感じる彼らのほうが、むしろ過った人選をしないのではないだろうか。「なんだかずるそうなおじちゃんだよ」と彼らが見るなら、いかに立派な言葉を連ねようときっとずるいおじちゃんに違いない。子供のほうが、むしろ大目にみているのではないか。

 

にこにこするのは世界を大目でみている証拠

 日本にまだ科学が一般的でなかった江戸時代、黒船でやってきたペリー総督は、日本滞在中に多くの手紙をアメリカの奥さんに書き送っている。

 そこで彼が繰り返し書いたのは、日本人がにこにこしながら仕事をする不思議な民族だということ。そして礼儀正しく、挨拶も丁寧だということ。それから風呂が混浴で驚いたということである。

 大目にみることがなくなってしまった現代日本はどうだろう。

 仕事はピリピリ、礼儀もなく無愛想、そして混浴など殆んどの地域では見られなくなってしまった。

 まだ30年ほどまえは、私の住む福島県にも混浴の温泉があった。べつに男女一緒だからといっても、そこでは大目にみているのであって、じっと見詰めたりはしない。ラオスの酒やタバコと同じで、それだけでは大した問題などありはしないのだ。だから混浴も大目にみてほしいのに、そういう世の中ではなくなってしまった。

 混浴も残念だが、しかしなんといってもショッキングなのは、当時の日本人はにこにこしながら仕事していた、ということである。

 ラオス駐在の日本人旅行社の女性社員も「こちらは、ストレス、ゼロですよ」と笑っていたが、これはいったいどうしたことだろう。

 考えてみれば当然のことで、我々の好きな分析や計画が綿密になるほど、人はにこにこなどしなくなる。にこにこするのは、世界を大目でみている証拠ではないだろうか。

 大切なのは「心の平安」だけ、という長老の言葉が再び憶いだされる。

 日本語の今の「大目にみる」という言葉には、なんとなく後ろめたさが伴うが、おそらくそれはもっと詳しく分析的に見るべきなのに、という思いが心中に隠されているからだろう。

 しかし本当の意味で「大目にみる」ことは、もっと堂々と誇らしくなされるべきではないか。

 混浴は無理にしても、挨拶を丁寧にしつつにこにこ仕事しながら大目を養いたいものだ。

 

玄侑宗久

(げんゆう・そうきゅう)

作家、 臨済宗妙心寺派福聚寺住職

昭和31年(1956)、福島県三春町生まれ。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業後、さまざまな仕事を経験する。その後、京都天龍寺専門道場に掛搭。現在、臨済宗妙心寺派福聚寺住職。僧職のかたわら執筆活動を行ない、デビュー作『水の舳先』が芥川賞候補作となる。平成13年『中陰の花』で同賞を受賞。
主な著書に『禅語遊心』(筑摩書房)『禅的生活』『現代語訳 般若心経』(以上、ちくま新書)『釈迦に説法』(新潮新書)『息の発見』(平凡社)『サンショウウオの明るい禅』『日本的』(以上、海竜社)、小説に『アミターバ――無量光明』『アブラクサスの祭』『テルちゃん』(以上、新潮社)など多数ある。
玄侑宗久公式ホームページ:http://www.genyu-sokyu.com/


◇書籍紹介◇

無​功徳

玄侑宗久 著
 

こうすれば、こうなるはずなのにうまくいかない。努力が報われない。一所懸命やっているのに感謝されない――真面目な努力家ほど、こういう「功徳」の穴に陥りやすい。自分が行なった善行に比例して功徳があると思いがちなのだ。

 禅の開祖・達磨大師は、仏法興隆に大きく貢献した梁の武帝が「自分にどんな功徳があるか」と訊ねたとき、「無功徳」とそっけなく答えたという。「功徳を積んでいると意識」した瞬間、功徳そのものが台無しになる。禅らしい奇抜なおしえだが、今の日本人にこそ、こうした考え方が必要なのではないか。自分に戻ってくる功徳はたまさかのものと肝に銘じておけば、その「ご利益」は何倍もうれしくなる。

 本書は、著者が折々つづった随想を「無功徳」という禅語でくくり、混迷を深めてしまった現代社会をしなやかに風流に生きていくための処方箋を提示する。結果を期待せずに、楽しんで行なう。すると生命そのものの力が輝いてきます。



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