「賑やか」「情熱」「ロマンチック」そんなイメージが強いスペイン。
本稿の著者Ritaさんは、53歳の時に急に思い立って、学生として単身でスペインに渡り、3年間を過ごされてきたなかで、そのイメージは大きく変わったと言います。
本稿では、3年前スペインに降り立ったその時の不安、期待、喜びについて語っていただきます。
※本稿は、Rita著『自由で、明るく笑って過ごす スペイン流 贅沢な暮らし』(大和出版)より一部抜粋・編集したものです。
この国に、なぜか懐かしさを感じた
約23時間の長旅を経て、ついに私はスペインのマラガ空港に降り立ちました。
空港の扉を抜けた瞬間に感じたのは、まぶしいほどの太陽の光と、頬を撫でる乾いた風でした。
地中海の明るい光が、肌に突き刺さるように感じられ、まさに異国の地に足を踏み入れたことを実感しました。
「ここが、スペインなんだ」
地球儀のずっと西、遠いと思っていたあの国の大地に、今、自分の足が確かに立っている。その実感が、胸の奥でじわりと広がっていきました。
旅の疲れより、ようやくここまで来られたという達成感のほうが勝っていました。
見知らぬ土地、未知の言葉、不安だらけの毎日が始まる。
それでも、その一歩を53歳の自分が踏み出したという事実に、胸が震えました。
長い空路で固まりきっていた体に、ようやく酸素が巡り始めたような感覚。
怖さも不安もいったん脇に押しやって、私は、目の前に広がる青空と乾いた風を、深く、深く吸い込みました。
最初の試練は、語学学校が手配してくれた迎えのドライバーへの連絡でした。
事前に用意していたメッセージをスマホで送るだけなのに、手が震え、画面の文字すら、にじんで見えました。
すぐに返信が来てしまい、頭が真っ白になったのを覚えています。
どうにか合流できたときには、安堵よりも「これからどうなるんだろう」という、言い知れぬ緊張感のほうが勝っていました。
それは、単なる連絡ひとつにとどまらない、自分と「これからの生活」との最初の接点だったのだと思います。
スマホを握りしめていたあの手の震えは、語学の壁だけではなく、これから始まる未知の暮らしそのものへの畏れでした。
誰にも頼れない、言葉も通じない、そんな環境で本当に生きていけるのか......。
自分の中に湧き上がる不安を、必死に押し込めながら車に乗り込みました。
その瞬間から、私の「本当のスペイン生活」が、静かに動き出したのです。
窓から見える景色は、まさに映画のワンシーンのようでした。
抜けるような青空、赤い瓦屋根、窓辺に飾られた色とりどりの花々、そして細く曲がりくねった坂道。
しかし、どれだけその景色を眺めていても、私自身がその中に溶け込めているとは、到底思えませんでした。
あくまで"よそ者"として外側から見ている感覚。
当時の私は、旅行者以外の何者でもなかったのです。
それでも、この風景の中でいつか自分らしく呼吸ができる日が来るのかもしれない。
そんな小さな希望を、胸の奥にそっとしまったのを覚えています。
最初の2ヶ月間はホームステイでした。
60代のご夫婦があたたかく迎えてくれ、その優しい笑顔と差し出された手、そしてゆっくりとしたスペイン語の話し方に、凝り固まっていた私の緊張が少しずつほぐれていきました。
常に4、5人の留学生が同居するこの環境で、朝・夕は20~30代の学生たちと一緒に食事をしました。私にとって「外国の人たちに囲まれる食卓」というだけで大きな緊張でしたが、1人の学生として仲間入りできたことが何よりも嬉しく感じました。
彼らの会話のスピードや使う言葉についていけず、食卓ではうまく発言もできずに、うなずいて笑っているだけの日もありました。
でも、たまに通じた言葉にふわっと場が和むと、心がじんわりあたたかくなりました。
話せなくてもここにいていいんだ。そう思える時間が少しずつ増えていきました。
心が動かされる出来事が増えていく

部屋にひとりになった途端、胸にぐっと何かが込み上げてきました。
スーツケースを開けたとき、中から出てきたのは、遠い日本から持ってきた私の"過去"でした。「ご機嫌で出かけられるように」と買い直した小さな化粧ポーチ、現在30代になった我が子たちが幼少期から書き続けてくれたカード類。
一つひとつを手に取るたび、「ここに来るまでの人生」が走馬灯のように駆け巡り、これまでの生活や留学を決意するまでのさまざまな出来事が鮮明に蘇り、涙がにじみました。
どれも大切で、かけがえのない時間だったのだと、異国の小さな部屋でしみじみと実感しました。過去を捨てるのではなく、抱きしめたまま、私は新しい世界に足を踏み入れよう。そんな気持ちが芽生えました。
それは、言葉も文化も違うこの場所で、新しい人生の扉を開こうとしている自分に気づいた瞬間です。
初日の夜は、ほとんど眠ることができませんでした。
聞き慣れない異国の音に囲まれた部屋で、天井を見つめながら、何度も「本当に来たんだ」と自分に言い聞かせていたのです。不安しかなく、むしろ、なぜ自分がここにいるのか、わからなくなる瞬間すらありました。
望んで来たはずなのに、楽しみより不安ばかりが募った夜でした。
自信なんてかけらもなく、布団の中で静かに深呼吸を繰り返しながら、「きっと大丈夫」と何度も心の中でつぶやきました。どこにも逃げ場のない現実が、静かに、でも確実に、私の覚悟を試しているようでした。
翌朝、学校まで案内してくれる同居の留学生と一緒に歩いた7分間。
朝の光に照らされた坂道の、生い茂る鮮やかな緑が目に飛び込んできました。
しかし、その美しさすら、ゆっくり感じられる余裕などなく、私は足元ばかりを見つめ、無言で登校しました。
学校の建物が見えてきたとき、心臓がドクドクと音を立て始めました。
胸の奥では「逃げ出したい」という小さな声が何度もささやいていたのに、それでも前に進んだのは、自分で選んだ道だから。恐れをごまかさず、抱えたまま歩く。
それが、私にできる精一杯の「覚悟」でした。







