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生き方

うまくいかぬ時代には、好きな道に賭けよう!

本多信一(作家)

2013年03月28日 公開 2020年09月08日 更新

『お金と会社にしばられない生き方』より》
<挿画:大高郁子>

◎ナイナイづくしの少年期、青年期

本多信一という名前を与えられて生きている私という人間は、本当に不器用ですし、「他人にできて、自分にはできないこと」がイヤというほどたくさんあって、正直、「よくこれで生きてこられたなあ」と自ら感心するぐらいなんですね。ですから本当のところ、こうして文章を綴って、人様に何事かを伝えようとしていることは「あまりにも分不相応」と自ら思います。

しかしまあ、自分に与えられた「生の条件」がどんなものであれ、せっかく与えられたイノチなんですから、その所与の条件を受け入れて、細々とでも生きていくよりありません。

子どものころから私は「自分のダメさ加減」が身にしみてよく分かっていて、初めは修正の努力をしたこともあるのですが、十代後半には早くも「ま、これで生きてゆくよりないな」と考えるようになりました。

たとえば、私は「学校という集団」がまったく合わないのです。いえ、一切の集団がダメなんです。ですから「集団社会のもとで立身出世する」なんて考えたことは一度もないのです。会社や役所に入って係長とか課長、部長になるなんてことはまったく考えられません。

それに、この地上にほしいものがなくて、地位や名誉を望んだこともありません。また、自動車やパソコン・ファクシミリ・ビデオといった近代的機器は関心がないため触りません。いえ、機械操作がまったくできない人間です。

中学生、高校生のころから、学校を休んでは山奥のホラ穴で原始人のような生活をしていました。このときに、最も充実感を覚えたぐらいです。本当に縄文人なんですよね。

そんな人間って、いったいどのように生きたらいいのでしょうか? 野心もなく学力もなく気力も体力もないんです。父は警察官、母はタバコ屋さんなので財力もありません。まったく“ナイナイづくし”だったのです。これでは絶望するのも当然でしょうね。

このような「少年期、青年期の絶望」を持つ男女は時代がどう変わろうと、いつの時代にも必ず存在するものです。あるいはいまのあなたも、かつての私と同じ絶望を持っているか、あるいは過去にそんな絶望体験を持ったことのある方なのかもしれません。としたら、私の“お仲間”ですね。

こうした場合、ナイナイづくしの己を責め立てても何も始まりません。自分にとってうまくいかぬもの、よくできないものを「努力によってカバーする」のはあまりにもむずかしいと思います。では、どうするか? これはつまり“ダメな子の成長物語”という永遠の一大テーマといえるでしょうね。

 

◎“自己流”を磨けば、人生うまくいく

よくよく考えると、ナイナイづくしの人間にでも、何か1つぐらいは「アルもの」が存在するのです。それを時間をかけて探して伸ばすよりないでしょう。

私の場合、「この世で成功する要素」はゼロなのだと早くから分かっていました。唯一あるのは「他人への同情心」とか「信仰心」なんですよね。その2つを合わせて考えると、私の適職とは、「旅の僧侶」とか、占い師、他人の相談に乗る人ぐらいなんです。

こう気づいたのが高校3年生の秋、思い切って学校を退学したときでした。端的にいえば、「わが成功を断念し、他のために生きる決心」をしたことで、ようやく自分の人生のメドがたったのです。そして実際に「個人のための無料相談」で生きることにして、30歳から病気になる60代後半まで、その道で生きてきたんですね。

自分の“この世の中での成功”を完全放棄してしまうと、ラクなもんです。気分は五月晴れした。この道っていささかへンな人生コースではありますが、過去の歴史のなかには、有名無名のこうした人々はたくさんいました。

有名どころではお釈迦様、老子先生がいますし、良寛さん、宮沢賢治先生、種田山頭火さんのご三方とか旅回りの仏師・円空さんなんかもそうした一人でしょう。無名の旅の僧や尼僧なんかもじつはたくさんいたわけです。

現代でも自分の成功を断念してボランティア活動をされている人々は世界中にたくさんいます。ですから、それも1つの選択ですよね。「そんな人生を選んだら先行きは飢え死ぬか、ホームレスでは?」と思うでしょう。もちろん、私はそれを覚悟していました。「このイノチ、別にどうなろうとかまわない」と、すでに高校時代に決心したのです。

もっとも、皆さんは、「でも、あなたは中央大学法学部から時事通信社に入り、マスコミ人になったでしょう?」と思うでしょうね。それは無料相談をするための“社会勉強”であり、意識したキャリアづくりではないのです。とはいえ、いまから思うと本当に不思議なんです。学力がなく学校嫌いの自分がなぜ大学に合格し、マスコミ企業に入れたのか、が。

人間って何か大目標をもつと、その目標の実現のために少しは力が出てくるんですね。私は高校をいったん退学した後、矢澤先生という恩師から「高卒の資格を得るため、どこでもいいから大学に合格せよ!」と涙ながらの説得を受け、それまでまったく放棄していた勉強を独学で3カ月間、必死にやりました。それで大学に合格し、職員会議が開かれて復学 ― 高卒となったのです。

でも、集団ダメ人間ゆえ、大学に行ったのは初めの数日間ぐらいで、あとは行かなくなりました。退学するつもりでしたが、前述のように4年次の夏、1~4年分の学科を40日間ぐらい、1日1科目の割合で20時間ぐらいずつ勉強し、追試験を受けたところ全科目合格の奇跡を成し遂げ、卒業資格を得ました。

5年次(卒業を1年延ばしたため)に至難のマスコミ受験をし、これまた奇跡的に合格したのです。私の場合、短期集中で独学すると好結果が得られます。人から勉強を教わったことはないので何事につけ、すべて独学なんですね。国家公務員・地方公務員試験も中小企業診断士試験もすべて独学で合格しました。ですが、私の願いはただ1つ、無料相談人生に入ることでしたから、別に大学卒業とかマスコミ企業合格なんてたいした意味はなかったのです。

ただ、
「人は目的をもつと力が身につく」
とか、
「すべての方面に自己流を発見すると、うまくいく可能性は増す」
といった人生法則(?)めいたものを発見できたのは良かったと思っています。

 

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◎ “身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”という生き方

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