近年、日本人の睡眠時間の短さが国際的にも注目される中、睡眠への関心はかつてないほど高まっています。3月10日、麻布台ヒルズで開催された「Sleep Biz 2026」では、睡眠をビジネスやヘルスケアの文脈で捉え直す企業の出展や講演が繰り広げられました。
その中でも注目を集めたのが、予防医療の最前線に立つ三村將さん(慶應義塾大学予防医療センター)による特別講演です。「よい睡眠なくして健康なし」と題された本セッションの内容をレポートします。
睡眠は「もったいない時間」ではない
私たちは人生の3分の1から4分の1を眠って過ごします。多忙な現代人にとって、この時間は一見「もったいない」と感じられるかもしれません。しかし、三村さんは「睡眠は生命維持に不可欠なシステムである」と断言します。
睡眠中、体内ではダイナミックな変化が起きています。特に重要なのがホルモンの分泌です。深い睡眠(ノンレム睡眠)のときには、子供の成長だけでなく、成人の組織修復やアンチエイジングに不可欠な「成長ホルモン」が分泌されます。一方で、覚醒に向けては「コルチゾール」というホルモンが上昇し、活動の準備を整えます。
三村さんは、睡眠と覚醒のリズムを司る物質として「オレキシン」に言及しました。これは、突然眠り込んでしまう「ナルコレプシー」の研究から筑波大学の柳沢正史教授らによって発見された物質です。現在、このオレキシンの働きをブロックする新しいタイプの睡眠薬が主流となっており、睡眠医学の進歩を象徴しています。
「量」よりも「質」――加齢と睡眠の真実

三村將先生
「何時間眠ればいいのか」という問いに対し、三村さんは加齢に伴う変化を理解する必要があると指摘します。乳幼児期に最も長かった睡眠時間は、加齢とともに減少します。70代であれば、6時間程度の睡眠で十分である場合も少なくありません。
三村さんが強調するのは、睡眠の「時間」そのものよりも「質」の重要性です。睡眠の質を語る上で欠かせないのが、レム睡眠とノンレム睡眠のサイクルです。ノンレム睡眠は深さによって複数のステージに分けられますが、高齢になると眠りが浅くなり、中途覚醒(途中で目が覚めること)が増える傾向にあります。
質の高い睡眠を確保するための鍵は「体温調節」にあります。体温が下がるタイミングで眠気が訪れるため、寝る前に一度体温を上げておくことが効果的です。夕食に温かいものを摂る、軽い運動をする、あるいはぬるめのお風呂に浸かるといった習慣が、スムーズな入眠を助けます。
ストレスと「緑茶」の意外な関係
講演では、オフィスワーカーを対象とした最新の研究「JN オアシス研究」の結果も紹介されました。ウェアラブルデバイスや唾液検査を用いたこの調査では、ストレスと睡眠の関係が浮き彫りになりました。
特に注目すべきは、炎症やストレスに関連する免疫成分「IL-6(インターロイキン6)」の値です。IL-6が高い人ほど、睡眠の質(特に深いノンレム睡眠の第3層)が悪いという相関が見られました。
興味深いことに、このIL-6を下げる要因として「緑茶」の摂取が挙げられました。緑茶は認知症予防に良いとされていますが、免疫機能を高めることで睡眠にもプラスの影響を与える可能性があるのです。一方で、二世帯住宅での生活がストレス値を高めているといった、住環境が睡眠に与える意外な側面も示唆されました。
脳の掃除機能と認知症予防
睡眠の質は、将来の健康リスク、特に認知症とも深く関わっています。アルツハイマー病の原因物質とされる「アミロイドβ」は、中途覚醒が多い人ほど脳内に溜まりやすいことが分かっています。
睡眠中、脳内では「グリンパティック・システム」と呼ばれるリンパ系のような仕組みが作動し、脳内の老廃物を洗浄・除去しています。しかし、睡眠の質が悪いとこの掃除機能がうまく働かず、老廃物が蓄積してしまいます。つまり、毎晩の質の高い睡眠こそが、最強の認知症予防策と言えるのです。
睡眠障害への向き合い方:無呼吸と不眠の「負の連鎖」
不眠症には、寝つきが悪い「入眠困難」、途中で目が覚める「中途覚醒」、ぐっすり眠った感じがしない「熟睡困難」、朝早く目が覚めてしまう「早朝覚醒」といった様々なタイプがあります。三村さんは、「不眠は症状であり、その背景にうつ病などの病気が隠れていることもある」と指摘します。
対策としては、まず「非薬物療法」が重要視されます。朝日を浴びて体内リズムを整える、布団の中でのスマートフォン使用を控え「布団は寝るだけの場所」と脳に覚え込ませる(刺激制御法)、さらには今後保険収載の可能性がある「睡眠の認知行動療法(CBT)」などが有効です。
薬物療法が必要な場合も、かつての主流だったベンゾジアゼピン系ではなく、依存性の低いオレキシン受容体拮抗薬などが現代の第一選択肢となっています。
一方で、睡眠時無呼吸症候群では、酸素濃度が劇的に低下し、身体は「エベレストを無酸素で登っている」ような過酷な状況に置かれます。無呼吸といびき、そして昼間の眠気という「3つのS」に心当たりがある場合は、専門的な検査が必要です。
恐ろしいのは、不眠症と無呼吸が併存すると、生命予後が著しく悪くなるという事実です。この「負の連鎖」を断ち切るためには、無呼吸を悪化させない適切な睡眠薬の選択(デエビゴなど)や、CPAP(シーパップ)、マウスピース、あるいは「横向きに寝る」工夫など、個々の症状に合わせた治療が不可欠です。
健やかな暮らしのために
三村さんは講演の締めくくりに、改めて「質の高い睡眠が、慢性疾患の予防、労働生産性の向上、そして将来の認知症予防に直結する」と強調しました。
会場との質疑応答では、無呼吸症候群の治療器(CPAP)が合わない場合の対処法として、マウスピースの作成や「横向きに寝る」ための寝具の活用といった具体的なアドバイスも送られました。
睡眠は、単なる休息の時間ではなく、私たちがより健康に、より自分らしく生きるための「投資」の時間です。あらためて自分の睡眠の質を見つめ直し、緑茶を飲む、寝る前のスマホを控えるといった小さな一歩から始めてみてはいかがでしょうか。
【三村 將(みむら・まさる)】
慶應義塾大学名誉教授。予防医療センター特任教授。医学博士。専門は老年精神医学、神経心理学。認知症や老年期うつ病の診療、研究に従事している。近年は認知症とうつ病の予防プロジェクトに力を注いでいる。





