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生き方

黒く沈んだ部分が際立たせる光 アルコールインクアートが映した感情の均衡(連載「描き屑の瞬き」第2話)

いのうえまりこ(画家)

2026年06月05日 公開

黒く沈んだ部分が際立たせる光 アルコールインクアートが映した感情の均衡(連載「描き屑の瞬き」第2話)

画家のいのうえまりこさんは、アルコールインクを主な画材に、自分の内側にあるものと向き合いながら作品を描いています。

アルコールインクアートとは、インクと無水エタノールを紙に垂らし、ドライヤーなどの風や紙の傾きでインクを広げていく抽象的なアート。

本連載「描き屑の瞬き(かきくずのまたたき)」では、いのうえさんがその時々に抱いたあれこれを、絵とエッセイで綴ります。第2話も前回と同じく、担当編集との対話のなかで描きあげられた絵と、そのときの言葉や感情をもとにしたエッセイです。

悲しみ、怒り、恐怖――。つい押し込めてしまいがちな感情を、いのうえさんはどう受け止めているのでしょう。

 

虹の反対側を見つけた日

空に、大きな虹がかかっていた。

誰もが夢中で見上げていた。

振り向くとその反対側で、雲間の晴れ空と濡れた地面が静かにキラキラしていた。

誰も見ていない景色が、いつもよりきれいに見えた。

そんな日だった。

いのうえまりこ アルコールインクアート

編集の方との対談は前回から続いている。

また新しい絵を描いている。

今度の絵は、少し意図的に色を動かしてみた。画面上で色を混ぜるように動かした。

色の基本原理に「減法混色(げんぽうこんしょく)」というものがある。感覚的にもわかることだけれど、いろいろな色を混ぜれば混ぜるほど、やがて黒に近づいていく。

手元の画面にも黒が生まれ、どこか重力を帯びていた。気づけば、対談の内容もまた、重たいものになっていた。

あまりにも大きなテーマで軽々しく語れるものではないけれど、世界情勢についての話にもなった。

編集の方は、戦争のことを考えると怖い。怖いのにずっと情報を追ってしまい、それでまた怖くなる。そんな胸の内を吐露してくれた。

私は申し訳ないくらいニュースを見ない生活をしていて、同じ感覚を返すことはできなかったけれど、「怖さ」などの負の感情について絶えず考える日々ではあった。

世界の出来事と並べるにはあまりに個人的で恐縮だけれど、日常の中で、ふいに心が痛むことが最近よくあった。悲しみや怒り、理解できない怖さ。いろんな感情が噴き出して止まらない時期があった。

数々の自己内省系の本を読んできた身としては、「起きていることにはすべて意味がある」と、どこかで知っているつもりでいた。それでも、頭で分かっていても、この感情をどう扱えばいいのかわからなくなることがよくあった。

絵の中の色は、混ぜれば混ぜるほど黒に近づいていく。現実の感情もまた、向き合えば向き合うほど重くなっていくように思えた。

けれど、ちょうど頭の片隅に引っかかっていた言葉があった。対談のほんの2日前、ふと浮かんできた考えだった。

「もしかしたら、増えているのは不安じゃなくて、受け止める皿のほうなのかもしれない。」

対談の中で、怖さや悲しみについて話しているうちに、その言葉がもう一度浮かび上がってきた。

嫌な出来事が増えているのではなく、受け取れる量が広がっているだけなのかもしれない。

「幸」と「不幸」の感情は対極に並んでいるものではなく、体でいうなら右腕と左腕のようなもので、良いことがあれば右腕がぐっと伸び、嫌なことがあれば左腕もまた遠くまで伸びていく。

片腕だけでは何かを抱えることはできない。両腕を大きく広げられるようになったからこそ、いずれやってくる幸福も、こぼさずに抱きしめられるのかもしれない。

対談の中で、自分が話すその言葉に触れているうちに、内側の景色が少しずつ動いていくのを感じた。

いのうえまりこ アルコールインクアート

後日、もう一度、描いていた絵を眺めてみた。

混ざり合った色の中には黒く沈んでしまった場所もある。その沈んだ場所があるからこそ、周りの色はいっそう強く光って見えた。暗さが、明るさを照らしているようだった。

色彩論を学んでいた頃、印象に残っている話がある。私たちの目は、色よりも"明るさの差"に強く反応するらしい。明暗を感じる桿体細胞(かんたいさいぼう)のほうが、色を感じる錐体細胞(すいたいさいぼう)よりもずっと多いのだという。

どれだけ多くの色があっても、目は自然と光と影の境界へ引き寄せられていく。コントラストの強い場所に、気づかないうちに視線を向けている。

影があるから光は輪郭を持つし、暗さがあるから、キラキラと揺れているものの美しさに気づける。

それはきっと、絵だけの話ではないのだと思った。

 

誰もが虹を見上げていたあの日。
幸福の象徴をたくさんの人が夢中で写真に収めていた。

その反対側で、雲の亀裂から差し込む青空と、静かに濡れた地面を見つけた。

誰も見ていない、黒く濡れたアスファルトだった。そこに雲間の光がうっすらと反射していた。

ただそれだけだった。

虹の反対側、影の景色に
こんなにも静かな美しさがあることを
見つけられてよかったと思った。

空いっぱいに、両腕を広げてみたくなった。そんな日だった。

いのうえまりこ アルコールインクアート

今回使用した画材:アルコールインク

プロフィール

いのうえまりこ

画家

東京生まれ。芸術系のクラスのある高校に進学し、早くから美術を学ぶ。武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科を卒業。
10年以上絵を描くことから離れたのち、2020年末より制作を再開。現在はアルコールインクを主な画材とし、抽象表現を中心に制作している。
「自身の内側に気づくこと」を主軸に、自己対話を重ねながら描く。過去に置き去りにしてきた感情や記憶、そして今この瞬間の感覚に触れ、その輪郭を探るように表現を続けている。
その中で生まれたものが、誰かの中にも小さな変化を残していくことを願っている。
不定期でワークショップや展示会を開催中。詳細はSNSアカウントを参照。
https://www.instagram.com/ino_artworks/

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