どの世界にも上には上がいるもの。ベストセラー『国家の品格』で知られる数学者の藤原正彦氏も、若き日にはいくつかの挫折を経験し、悔しい思いをしてきました。そのとき、彼が思い出したのは室生犀星の「小景異情 その2」。どんなに辛くても故郷には帰らない、そう著者に思わせたエピソードとは。
※本稿は、藤原正彦著『静かな夜はあの歌と 一曲一曲に刻まれた、六十二篇の回想録』(PHP文庫)から一部抜粋・編集したものです。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
大学に入った当時、私は囲碁と将棋の才能に溢れていると信じていた。4月、早速、囲碁部の門を敲(たた)いた。
すると副主将の2年生が出てきて、「碁会所でどのくらいで打っていますか」と聞いてくる。胸を張り「1、2級で打っています」と答えた。アマチュアで1級といえば一応は実力者である。ところが副主将は事も無げに言った。
「では星目で始めましょう」
これにはカチンと来た。碁盤には「星目」といって、盤面の要所に9つの黒い点がある。力量に大差がある場合、劣る方の者が、この星目に予め自分の石を9個置いてから始める。ハンディとしてである。両者にそれほど差のない場合は2個だったり4個だったりする。
1つ先輩とはいえ、初対面の私に対し無礼な奴だ。コテンパンにしてやろうと思った。まったく歯が立たなかった。三段で、卒業後にアマチュアの全国大会の県代表にもなった男だった。
その先輩が、対局中にしきりに何かを唱えている。
〈ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの〉
室生犀星の詩集『抒情小曲集』の冒頭を飾る「小景異情」であった。私はこの詩集を持っていた。
【小景異情 その2】(室生犀星)
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
〈ふるさとは〉から〈帰るところにあるまじや〉までの有名な一節は、耳に残っていたがややうろ覚えであった。先輩は、この詩を最初から最後まで対局中に諳んじながら私を負かした。あしらった。
残念どころの話ではない。囲碁で打ちのめされ、文学的素養でも圧倒されたのである。帰宅するや「小景異情」を改めて読み直した。
〈うらぶれて異土の乞食となるとても/帰るところにあるまじや〉
異国の地で、落ちぶれて惨めになってしまっても、故郷は帰る場所ではない。〈ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ〉しか他にないというのである。先輩に手もなくひねられた惨めな気持ちと、犀星のそれが重なった。囲碁部への入部は止めた。
男児志を立てて郷関を出づ
大正、昭和を生きた室生犀星は、複雑な幼少期を送っている。
実父は加賀藩の足軽で、その女中との間に生まれたのが、犀星だった。望まれた子ではなく、生後すぐに外に出された。出された先が金沢の真言宗の寺、雨宝院の、住職の内縁の妻のところだった。犀星はこの女性の私生児として届けられ、7歳の時に住職の養子となった。実父、実母の顔は見たことがなかった。小さい頃は「妾の子」とからかわれた。犀星はふるさとに自分の居場所はないと都会へ飛び出したが、結局は落ちぶれて何度も帰郷せざるを得ない状況に追い込まれたのだった。
当時はまだ立身出世の気概が残っていた。
〈男児志を立てて郷関を出づ/学若し成らずんば死すとも還らず〉
男子たるもの故郷を出たら、立身出世を遂げるまでは死んでも帰らない。「末は博士か大臣か」とは明治期の言葉だが、犀星のこの詩の中にはこうした気概や焦りも含まれているような気がする。
犀星は昭和に入ってから小説に重きを置くようになり、昭和15年(1940)には菊池寛賞を受賞した。その後も『杏つ子』など数々の名作を世に送り出し、立身出世を成し遂げたのである。昭和16年(1941)から亡くなる昭和37年(1962)までの21年間、犀星は1度も故郷に足を踏み入れなかったと言われる。そのかわり、彼の書斎に故郷・犀川の写真を飾り懐かしんでいたという。養父母にもお金の仕送りをしていた。
私は金沢大学で学会があった折、雨宝院を見学に行った。
〈うつくしき川は流れたり/そのほとりに我は住みぬ〉(「犀川」)
と犀星はうたっているが、実際、雨宝院から美しい犀川の流れが見えた。犀川の西岸に住んでいたから犀西、転じて犀星としたのだろう。筆名の付け方にも故郷への思いが垣間見える。
この詩は、〈ふるさとは遠きにありて〉からの5行があまりにも有名で、他を覚えていないという人も多い。私もそうだ。ここに犀星の思いが凝縮されているのだから、それでいいのだろう。『抒情小曲集』は、犀星の詩集の中で私の一番好きなものである。これが読みたくてアメリカ留学の時も持参した。
将棋のほうは、大学1年の冬に学内将棋大会に出場し準優勝を飾った。決勝では、将棋部主将と2時間を超える熱戦を繰り繰り広げた。「これはいける」と、私は東京・千駄ヶ谷にある日本将棋連盟の将棋会館を訪ねた。そこで実力を見せつけようと考えたのである。係に指定された相手は小学4年生くらいの坊やだった。こんな小僧、ひねり潰してやると積極的に攻めたら、逆にひねり潰された。奨励会5級といったからプロの卵だった。
囲碁、将棋、麻雀......と勝負事は3度の飯より好きだったが、私は大学1年の秋までにこれらに見切りをつけ、きっぱり捨てた。
詩では犀星に敵わない。碁では星目で蹴散らされる。最も得意の将棋では小学生に敵わない。私はこれを機にすべての愉しみを捨てて、数学一本に絞ったのであった。ついでに女もきっぱり捨てた。愚妻はこの最後のものについて、「単にモテなかっただけでしょう」と言う。なぜか腹が立つ。









