ロシアから来たエース 巨人軍300勝投手スタルヒンの栄光と苦悩
2016年05月23日 公開 2023年02月15日 更新
《PHP電子書籍『ロシアから来たエース』より》
天国にいるパパヘ
「スタルヒン球場と命名する」。板東旭川市長のマイクを通した大きな声が、晴れ渡った秋空に響き渡った。その瞬間、スタンドを埋め尽くした2万5000人の観客の歓声と拍手が“ドーッ”という地響きとなり、球場全体を揺さぶった。
この日、日本で初めて、一選手の名前がつけられた球場が旭川に誕生した。公式戦にも使えるこの球場の正面入口前には、あたかも「ここは自分が守るんだ」といわんばかりの父スタルヒンの姿がある。巨人軍のユニフォームを身につけた父は、最高に幸せそうな微笑みを浮かべ、そこに立つ。
巨人軍に戻りたいと切望しながらも果たしえなかったその夢が、やっと旭川で実現したのだ。GIANTSと横文字で入ったユニフォームを脱がそうとするものはもうどこにもいない。自ら脱ぐ必要もまったくない。青春をグラウンドにぶつける若者達の姿をいつも見守りながら、永久に野球人としてそこに存在できるのだ。父にとってこれほどの喜びがあるだろうか。今にして初めて本当の幸せをつかんでくれたような気がしてならない。
白系露人であるがゆえに逃れられない運命を背負い、歴史に流され、時代に押しつぶされ、迫害を受けながらの父の人生は、あまりにもさびしく、悲しく、悲劇的であった。しかし、父には野球があった。だからこそ、この程度で済んでいたのではないかとも思う。どうしようもない状況に追い込まれ、プロ野球入りを決意した時、もし、より以上の力が作用して、入団せず、大学か、一社会人か、自分の希望通りの道を進むことになっていたら、その後の父の人生はまったく違っていただろう。当時の情勢からみて、良い方へ転んでいたとは考えられない、日本にいる異国人として、もっと辛く、苦しく、涙あふれる人生になっていたに違いない。
父の人生は敷かれたレールを走らされているにすぎなかったかもしれない。まわりに利用されていただけなのかもしれない。しかし、結果的には、その野球がまったく夢も希望も持ちえない一白系露人の人生に唯一の光をともしてくれていたのだ。
私は数年前、父の巨人軍入団の真相をつきとめるため、100名以上の方々の話を聞き、資料を集め、それこそ執念だけに支えられて取材にあたった。その結果、真相の全貌を明らかにすることができた。
北海道の中等野球のエースとして大活躍をしていた父に目をつけた読売。アメリカ大リーグのオールスターチームを迎え撃つために結成した全日本軍の一員として彼を手に入れようと、強引なルール無視の横車を押す。当時の右翼の大物、頭山満まで登場しての政治的暗躍あり、“国外追放”を切り札にしての脅しあり、さらには、事件を起こして入獄中だった父親の減刑を武器に、地元の反対、周囲の抵抗を押し切ってスタルヒンを入団させてしまう。
当時私の書いたものを読んでくださった方々は、そこに書かれた事実に、ある種の衝撃を受けたことだろう。書いている本人である私自身その事実に戸惑った。巨人軍に対して心の底から突き上げてくる怒りを感じずにはいられなかった。
しかし、今回、入団後から野球生活そのもの、そして引退後と、父の人生を取材していくにつれ、私の気持ちは徐々に変化していった。
どんな汚い手を使って、父を入団に追い込んだにせよ、あのように無理矢理にでも、プロ野球の道に叩き込まれたことが、結局は父にとって一番よかったのだと思うようになった。
もちろん、プロ野球入りをしたことによって、ありとあらゆる嫌な思いをしただろう。そういう意味では、決してハッピーではなかったと思う。入れる時は本人の意志を無視し、強引な手を使いながら、本人が巨人軍に戻りたがった時には、今度は締め出しをくわせる……父がいいように扱われていたのは明らかだ。父自身も、自分の野球人生、裏切られっぱなしだったと、友達にもらしていた。確かにそのとおりだっただろう。
でも、裏切られていようがいまいが、なんだかんだといったところで、やはり野球があってこその父の人生だったろう。あの時プロ野球入りしたからこそ素晴らしい記録をうちたてることができたのだし、社会的にも認められるようになり、死後29年たった今でもなお多くの人の心の中に生き続けているのだから……。
ただ父は野球人である前に、日本人であることを望んだ。どうしても日本人になりたかった。しかし、死ぬまで父の国籍の欄は空白のまま、“日本”という文字はついに書き込まれることはなかった。
何かにつけて「スタルヒンは日本人だったのだろうか」という質問にぶつかる。今さらなんてバカげた質問なんだろうかと思ってしまう。しかし、父の生きた時代は、ことさらそれが問題になった時代である。父自身が最も悩まされた部分でもあっただろう。
190センチ以上の巨体、顔はまるっきり外人、国籍はなし……そんな男がなぜ、日本人と認められるわけがあろう。どっからどう見たって外人……日本人ではないのだ。本人がいくら、しゃっちょこだちしたところで、まわりは誰も日本人と認めるわけがない。
巨人軍時代に同じ釜の飯をくったチーム・メイトの中には、「スタちゃんは完全に日本人だった」といいきる人間は多くいる。「日本人以上に日本人だった」という言葉もでてくる。しかしその反面、「日本の教育をいくら受けたからといっても、日本人にはなりきれていなかった」という人達もいる。それらはすべて正しいのだろう。
父は心の中では常に日本人であった。それは戦前、戦後を通して変わることはなかったはずだ。実際に変わったのは、まわりの環境であり、時代であった。これらが180度変わってしまったことにより、父へ向けられる目も当然のこととして変わってしまったのだろう。
いくら自分自身が日本人の心を持っていたところで、外見が外見だけに、外人扱いしかされない。
父の出生から巨人軍入団までを書いた、『白球に栄光と夢をのせて』を執筆してからすでに7年もたってしまった。その間には、藤本氏、水原氏、浜崎氏と、父をよく知っていた方々が相ついで亡くなってしまった。“当時の話を聞かせてくれる人がいなくなってしまう。早く入団後について書かなければ”と、私は気ばかりあせり、結局は手つかずのままになってしまっていた。しかし、そのあせりはやがて自分の行動と結びつくようになり、私はふたたび取材を開始することになった。そして今、やっと入団後の父の人生を書きあげることができた。父に対する娘の責任をようやく果たすことができたようで、とてもうれしい。
自分のふるさとにブロンズ像となって帰った父は、若い球児達を微笑みとともに見守りながら、いつまでも生き続けてくれることだろう。
ナターシャ・スタルヒン
本名・小潟ナターシャ。1951年東京生まれ。'69年、アメリカンスクール卒。翌年日本航空に入社、ステュワーデスとして勤務。結婚のため同社を退社、二児をもうける。その後、インストラクト業務などを続けながら、父V・スタルヒンに関する取材を開始、'79年には本書の前篇にあたる『白球に栄光と夢をのせて』(ベースボール・マガジン社刊)を出版した。その後さらに徹底的な取材活動の末、巨人軍入団以後の軌跡を追い、父の伝記の集大成として本書の刊行となった。現在、美容・健康を主体としたコンサルタントとして、個人指導、講演、執筆と多忙な毎日である。
<書籍紹介>
ロシアからきたエース
巨人軍300勝投手スタルヒンの栄光と苦悩
ナターシャ・スタルヒン著
革命の嵐の中、日本に亡命した白系露人の子・スタルヒン。生涯国籍なく、偏見と迫害に苦しみながら、ひたすら白球を投げ続けた男。天与の豪速球で巨人軍の大エースに成長、日本球界初の300勝をマークするが、やがて押し寄せる戦争の渦のなかで、追われるようにマウンドを去っていく…。時代と運命に押し流された父の軌跡を追う執念のノンフィクション。
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