大正期に勢いを増した「人種闘争」
しかしいったいなぜ、「西欧との対抗」というイデオロギーが登場したのだろうか。明治期に欧米諸国との協調路線をとることであれほどの成功を収めた日本は、何のために西欧と対抗しなければならないのだろうか。
「アジア主義」と称される多くの主張の中身を一度点検してみれば、その主義主張の中核となるのはやはり「人種」というキーワードであることがわかる。つまりアジア主義からすれば、白人の西欧人が黄色人種のアジア人を圧迫してくるので、「われらアジア人」は連帯してそれに対抗しなければならない、ということだ。
早くも明治後期には、五摂家筆頭の近衛篤麿によって中国の保全と連携を主張する「支那保全論」が提唱される。雑誌『太陽』(1898年1月1日)に発表された「同人種同盟論」で近衛は次のように力説する。
「最後の運命は、黄白両人種の競争にして、此競争の下には、支那人も日本人も、共に白人種の仇敵として認められる位地に立たむ」
したがって、日本は支那を「保全」して、支那人と連携しなければならない、という。
大正期に入ると、「人種論」に基づくアジア主義はいっそう勢いを増している。たとえば第一次世界大戦勃発の際、「陸軍のドン」として日本の外交・内政に大きな影響力をもつ元老の山縣有朋は、政府に送った意見書のなかで次のような主張を展開している。
いわく、今日の世界政治の重要な動因は人種闘争であるから、西洋諸国が戦後再び極東に関心を注ぐようになる。そうすると、白人種が提携してアジア人に立ち向かうようになる恐れがある。したがって、わが国としては白人種の将来の攻勢にそなえて、日中の提携をこの際、固めなければならない(岡義武氏、前掲書より)。
このようにして、日露戦争の終結から第一次世界大戦までの転換期において、日本が国家の新しい方向性を模索していくなかで、その時代を代表する多くの言論人や明治維新以来の元老が口を揃えて「人種闘争」を語り、中国との連携を主張することになった。このような動きは当然、日本という国の意思決定に大きな影響を及ぼすことになる。アジア主義の主張はこの時代において本格化し、日本という国の新しい「国是」となって、そのまま日本の進路を決めていくこととなったのだ。