《『Voice』2013年12月号 総力特集 驚愕の中韓近代史 より》
「近づくと災いが来る」大陸国に、先人たちはどう対峙したか
そもそも、日本と日本人は、中国という大国といったいどのように付き合っていくべきなのか。中国に接近し、外交面で連携すべきなのか。それとも一定の距離を取り、中国以外の国々と手を組むべきなのか。おそらく日本はこれからも、つねにこのような選択を迫られることになる。われわれはどのような座標軸をもち、正しい判断を求めていくべきか。
そうした座標軸を手に入れるためには、やはり歴史に立ち戻り、歴史に学ぶべきであろう。日本の歴史のなかには、中国に接近し大失敗を喫したときの事例と、中国と距離を置いたことで成功を収めた実例がじつに多数ある。先人たちの成功と失敗はわれわれにたくさんの教訓を残しているはずだ。われわれがすべきは、この失敗と成功の歴史に耳を傾けることであろう。
そこで本稿では、主に明治期の日本の興隆と成功から、昭和20年の未曾有の敗戦に至るまでの経緯を考察し、「中国に近づくと災いが来る」という日本史の「法則」の一端を明らかにしたい。
「脱亜論」で福澤諭吉翁が喝破したこと
明治という時代を特徴づける言葉の一つを選べば、それはやはり「文明開化」となろう。ここでいう「文明」が、西欧の先進文明を指していることはいうまでもない。西欧文明をモデルに文明開化を図ることによって日本を近代国家としてつくり上げていくことは、まさに明治国家の掲げた最大の使命であり、福澤諭吉翁が名著『文明論之概略』で提唱した「時代の精神」そのものである。
その一方、明治政府は文明開化の入欧政策の推進と同時に、その反対として「非アジア化」、あるいは「脱アジア化」も進めた。文明開化のモデルが西欧であるならば、反対の位置にあるアジアはもはや文明開化の妨げでしかない。
福澤諭吉翁の「脱亜論」においては、文明開化の一環としての「脱アジア化」の意味が次のように論じられている。
「国中朝野の別なく、一切万事西洋近時の文明を採り、独り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみなり。我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其国民の精神は、既に亜細亜の固陋を脱して、西洋の文明に移りたり」
諭吉翁からすれば、「脱亜」とはたんに地理的にアジアから離れようということではなく、アジア諸国との交渉を断絶しろという単純なものでもない。日本の国土が「アジアの東辺」にあることは永遠に変わらない現実ではあるが、日本人の「国民精神」を「亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移す」ことができるし、そうしなければならない、ということだ。それはすなわち、文明の転換論としての「脱亜論」の意味であるが、明治期の日本は、まさにこのような意味においての「脱亜」を果たした。それによって日本は、当時のアジアでは唯一の「非アジア的」な近代的先進国家となることができた。
そして、脱亜論の旗手である諭吉翁も論じているように、当時の日本にとって離脱すべき「固陋アジア」の代表格はすなわち近隣大国の中国であり、あるいは中国を中心とした中華文明圏そのものであったのだ。
「脱亜論」に先立って発表された「支那風を擯斥すべし」という文章のなかで、諭吉翁は文明論的な意味において、中国との「断絶」をこう主張している。
「……到底今の支那人に向ては其開花を望む可からず、之を友とするも精神上に利する所なし。……双方の交際は唯商売のみに止まりて、智識の交は一切これを断絶し、其国の教養を採らず、其風俗に倣はず、衣服什器玩弄の品に至るまでも、其実用の如何に拘はらず、他に代ふ可きものあらば先づ支那品を擯ることを緊要ならん」
つまり、貿易上の交渉以外に中国との交流をいっさい断絶し、「教養」「風俗」から「衣服什器玩弄の品」まで、中国の文明・文化を構成する諸要素のすべてを「擯斥すべし」という、まさに徹底した「脱中華文明」の主張であった。
そののちに著された「脱亜論」では、日本が「謝絶」すべき「アジア東方の悪友」として挙げられるのは中国(清国)と朝鮮の2国であるが、当時の朝鮮は自ら「小中華」と称して中華文明に完全に嵌まっているから、諭吉翁のいう「脱亜」はそのまま「脱・中華文明圏」である。「固陋」な中華文明を徹底的に擯斥し、日本を西欧先進国と肩を並べる近代文明国家としてつくりあげる。それこそが「脱亜入欧」という合言葉によって示された明治国家の正しい文明志向であり、賢明な国策だ、と諭吉翁は喝破したのだ。