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理屈だけで経営はできない――松下幸之助さんから学んだ「衆知の経営」

野田一夫(日本総合研究所会長)

2014年03月17日 公開 2022年07月11日 更新

《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年3・4月号[特集]人間大事の経営 より》

社員の人間性を重んじる経営を訴えた人物、欧米ならば多くの経営学者に影響を与えたピーター・F・ドラッカー、日本ならば松下幸之助ではないだろうか。
いち早くドラッカーの業績を知り、日本にその人と理論を紹介した功労者、また行動派の経営学者として、松下幸之助とも深い交流を持ったのが野田一夫氏である。
ドラッカー、松下幸之助との思い出を語りつつ、人間を大切にしながら“健全経営”をはかるために必要な経営者の姿勢を説く。
<取材・構成 江森 孝/写真撮影:鶴田孝介>

 

初対面で私の名​前をほめてくださった松下さん

 私が初めて松下幸之助さんにお会いしたのは、昭和38(1963)年、『エコノミスト』誌の「企業成長の決定的瞬間」という連載記事に関しての取材をさせていただいた時のことでした。

 初回の出光興産の出光佐三さんから、鹿島建設の鹿島守之助さんまで8カ月間、毎週企業のトップにインタビューする企画で、松下さんには、第36回でようやくお会いすることができました。大阪の中之島にあった会館の一室のドアをノックすると、「どうぞ」という声が聞こえたのでドアを開けると、松下さんはすでに部屋の真ん中まで来て、立って私を迎えてくださいました。今でこそ私も年を取ったので、相応の扱いをしていただけますが、当時は36歳の大学の助教授などには、多くの財界人はソファに座ったまま会釈するのがふつうでした。それを、70歳近い松下さんはわざわざ立って迎えてくださったわけです。

 そして名刺を差し出した途端に、「あんた、いい名前を持ってますなあ」と、そして続けて、「で、お父さんは姓名学でもやっておられますか?」とおっしゃったので、私が「いえ、親父は航空機の技術者です」とお答えすると、松下さんは「それ、なおいいわ」と、私の左肩をポンと叩き、「ほな、座りましょう」と言って取材が始まりました。まだ新幹線がない時代でしたが、私はあの日東京に帰るまで左肩が温かかったのを覚えています。あのとき、松下さんのお人柄というものが、私の心に強く印象づけられました。

 

車から降りた松下さん 現場に精通

 松下さんは明治27(1894)年の生まれで、明治18(1885)年生まれの私の父と9つしか違いません。そのため、お会いした最初から私には父親のように感じられました。これまで、お会いしてから親しくなった経営者は少なくありませんが、松下さんほど親しくなり、いろいろな場に呼んでくださった方もいません。車にもよく一緒に乗せていただいたものです。

 あるとき、松下さんが「運転手さん、ちょっと停めて」と言って車を降りられました。トイレにでも行かれたのかと思って、私が1人で待っていると、15分ほどして、松下さんが「すんまへん」と戻ってこられましたが、ナショナルショップが見えたので降りて、そこの店主と話してられたとのこと。後日、その話を松下電器の役員の方にしたところ、「それが困るんですわ。われわれが会議で何か意見を言うと、『あんたな、そんなこと言うたって、ナショナルショップの経営者はな……』と言われるんで困るんです」とか。常にお客さんに近い現場を原点として考えるところが松下さんらしいと、私はほんとうに感心しました。

 また、松下さんは、「社員が数百人だったころは楽しかった」とよく話されました。出社の途中で会うと、社員はみな「おはようございます」とあいさつしてくれるし、松下さんからも「あんた、おばあちゃん元気か?」とか、「子ども、大きゅうなったか?」と話しかけることもできた。そうやって社員と話すことが、松下さんはほんとうにお好きだったのだと思います。

 

非常時には濃い人間関係が不可欠。マーケティングの本質を理解

 松下さんは、いつお会いしてもニコニコしておられて、もちろん私は一度も叱られたことはありませんでしたが、部下の方からすればとても怖い人だったらしいですね。でも、叱られた人はその愛情を十分感じていたのではないでしょうか。

 松下さんと並んで、私にとって忘れられない個性的な経営者といえば、本田宗一郎さんですね。本田さんの次の社長だった河島喜好君は私の親友で、ホンダが初めて採用した大卒社員でした。初の大卒ならと、本社に置いて大事にされそうなものですが、河島君は最初から工場で働かされたそうです。本田さん自身も本社におられることはまれで、私も最初の取材は、「工場でなら会いましょう」と言われました。それで工場の事務所を訪ねたら、社員の方が「親父はここでなく現場です」と……。

 だから、本田さんは、河島君を工場現場の自分のかたわらに置いて、ものすごく厳しく指導したはずです。河島君によると、ときにハンマーが飛んでくることもあったそうですが(笑)、「一度も本田さんを恨んだことはない。むしろ自分が情けないと思った」と言うんです。それは、親しい人だからこそ叱るのであって、松下さんもそうだったはずですが、わが子のように思い、「こんなに期待しとるのになんや」という感じだったんでしょうね。松下さんや本田さんの時代は、上司と部下のあいだの人間関係が非常に濃密でしたが、それが最近では希薄になり、親子の関係さえ薄くなってしまいました。日本の大きな問題ですね。

 松下さんに社外からすぐれた人材が紹介されたのは、松下さんが、取引先などとも深い人間関係を築いておられたからでしょう。大番頭といわれた髙橋荒太郎さんの入社のいきさつ(得意先だった朝日乾電池から迎えた)が典型的なケースです。特に非常時には濃い人間関係が必要になります。松下さんが何度も危機を打開できたのは、その指導力もさることながら、日ごろから周囲の人たちとの結束が固かったからだと信じています。

 

著者紹介

野田一夫(のだ・かずお)

一般財団法人日本総合研究所会長

1927年名古屋市生まれ。1952年東京大学卒業後、3年間同大学大学院特別研究生。1955年立教大学専任講師となり、その後同大学教授。「日本の大学改革」と「日本企業の経営近代化」の推進者として活躍、多摩大学・県立宮城大学・事業構想大学院大学の初代学長を務める。日本総合研究所初代所長・ニュービジネス協議会初代理事長も歴任。著書多数。最新刊に『悔しかったら、歳を取れ!――わが反骨人生』(幻冬舎)がある。

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