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地の利は西軍にあった!? 地形で読み解く「関ケ原合戦」

谷口研語(歴史学者/法政大学兼任講師)

2014年09月13日 公開 2023年01月12日 更新

 

西軍主力の陣取り――近江への「間道」をおさえた石田三成

古代の律令三関は、それぞれ東海・東山・北陸3道を扼す軍事的施設であり、不破関のばあい、東山道が近江・美濃国境の狭隘部から関ヶ原盆地へ出る位置に立地している。関ヶ原盆地は、大軍の遭遇戦に十分なひろさをもつが、その西側は鈴鹿山脈と伊吹山地とにはさまれた狭隘な通路があるにすぎない。

石田三成を盟主とする西軍は、この隘路の出入り口をふさぐかたちで、北から笹尾山を背にして石田三成隊、豊臣秀頼配下の黄母衣衆、その南に島津義弘隊、その南、天満山北丘を背にして小西行長隊、天満山南丘を背にして宇喜多秀家隊、関の藤川(藤古川)を前にして大谷吉継隊と、関ヶ原盆地の西のはしに陣をつらねた。

三成隊が布陣した地を小関村という。この小関という地名も不破関に関係するものである。関ヶ原から近江へぬけるには、のちの北国街道にあたる間道があった。賤ヶ岳の戦いの際、羽柴(豊臣)秀吉が「賤ヶ岳一騎駆け」を敢行した道である。

当然、軍事施設としての不破関は、その間道をもおさえないことには機能をまっとうできない。したがって、その間道上にも不破関に付随する施設がおかれていただろう。それが小関という地名の由来とされている。三成はその間道をおさえるべく、小関村に陣をおいたのだ。

石田三成が陣した笠尾山

<写真:石田三成が陣した笠尾山>

さらに西軍は、松尾山の小早川隊、南宮山の毛利隊へと、ほとんど東軍前線諸隊を包囲するかの陣形をつくった。南宮山の北東山麓には美濃国の一宮である南宮神社が鎮座する。山名は同社に由来するが、南宮とは美濃国府の南にある神社だからという。

南宮神社北方の垂井町に府中という地名があるが、これは国府と同じく、古代の国衙(こくが:一国の政庁)所在地をさす。府中には美濃国国衙跡がある。古代美濃国の行政の中枢は、都が西方にあるため、全体に西にかたよって所在していた。

合戦の当初、家康は南宮山北西麓の桃配山に本陣をおいた。壬申の乱のさい、大海人皇子の行宮がおかれた地といい、大海人皇子が兵士の労をねぎらうため桃をくばったという伝承がある。

この桃配山に対して、北に岩手山(菩提山)があり、そのあいだは東の青野ヶ原、西の関ヶ原を画する狭隘部をなす。桃配山はこの狭隘部にのぞみ、関ヶ原盆地を一望できる。

付言すれば、岩手山は竹中半兵衛重治の本拠。「太閤記もの」によれば、わかき日の秀吉が、三顧の礼をもって織田信長への臣従を要請したとされる。

青野ヶ原は南北朝動乱初期の暦応元年(建武五、1338)1月、奥州(東北地方の太平洋側)の大軍をひきいて上洛途上の北畠顕家軍を、足利方が迎撃した青野ヶ原合戦のあった地。

さらにさかのぼって、平治の乱のさい、京都から敗走した源義朝主従は、いったん青墓の長者の家に立ち寄り、そこから、義朝最期の地となる尾張(愛知県)知多の内海荘へとむかったが、青墓は青野ヶ原の一角にあった。現在、青野という地名は、さししめす範囲が縮小し、大垣市の町名に残るのみとなっている。

家康が本陣とした桃配山は南宮山の北西麓にある。その西には西軍小早川の大部隊が陣する松尾山があり、南宮山の山上には西軍毛利・吉川の大部隊が、東側の麓には、これも西軍の長宗我部隊・長束隊・安国寺隊などがあった。

東軍はこれら西軍諸隊のおさえとして、牧田路方面に本多忠勝隊、桃配山と岩手山のあいだに家康旗下の三万や山内隊・有馬隊、その後方に池田隊・浅野隊をおいていたが、それにしても、家康本陣はきわめて危険な位置にあった。

それだけ、小早川や毛利・吉川に対する、家康の誘引工作がたしかなものだったのだろう。案の定、小早川隊の寝返りと毛利・吉川隊の日和見によって、決戦は西軍の完敗となった。

 

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