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兵は詭道なり!家臣を心服させた姫若子の初陣~長宗我部元親の野望

永岡慶之助(作家)

2010年11月08日 公開 2020年06月23日 更新

長浜城攻略戦

永禄3年(1560)5月26日夜半、長宗我部国親、元親父子は、兵を率)い小舟に分乗、夜陰に乗じて浦戸湾口にある本山氏の支城、長浜城へ奇襲をかけた。

声を殺し、櫓の音を消し、長浜川に分け入って上陸した彼らは、けものように城門に忍び寄って、なにやら手探りに操作したと思うと、樫作りの門扉が難なく開いた。先に送り込んだ工匠福富石馬助なる者が、外部から開くように細工しておいたのだ。

長宗我部兵は、喚声を放って城内へ突入した。ふいを襲われた城兵は逃げ迷い、多くが抵抗する暇もなく討たれ、城将大窪美作守は身一つで逃れ去った。

実は、宿敵本山梅慶はすでに亡く、当主茂辰は国親の娘婿であるが、これは戦国の世のならいの政略結婚であり、その討滅にいささかの感傷もない。必ず本山は、城の奪還に大挙して来襲する。そのときが正念場ぞ、と気を引き緊めるよう申し渡した。

国親の予言通り、落ちのびた城将大窪によって、長浜落城を知った本山茂辰は、ただちに陣容を整えて長浜表へ向かって出撃した。その数およそ2千余兵。これらの動きは、物見の者により刻々と長宗我部方へ伝えられ、全将兵に悲壮感が漂った。長宗我部軍は、千人足らずなのである。

時に、「姫若子」元親は、さしたる緊張の色もみせず.老臣秦泉寺豊後に「爺、槍はどのように使えばよろしいか」と尋ねている。思わぬ問いに豊後は、いささかげんなりして「余計なことは考えず、ただただ敵の眼を狙って突っ込まれよ」と教え、「こうした場合、大将たる者の心得はどうあるべきか」との問いには「御大将は、凝っとしておられればよろし」と答えると、元親は「さようなことか」と納得したようであった。

こうして、長宗我部元親22歳の、晩い初陣は開始された。両軍が激突したのは、長浜の戸の本の地。戦闘は朝8時から午後の1時頃まで繰り返されたが、彼我の兵力に違いがありすぎた。『土佐物語』は、「両陣過半滅びて、死人戦場に充ち満てり」と凄絶な情景となって、長宗我部軍はわらわらと崩れだした。

その時、敢然と踏みとどまったのが、意外にも「姫若子」元親だった。襲いかかる敵兵2人を、巧みな槍使いで次々と突き仆し、太刀を抜きざまに1人を斬り伏せた。それを見た味方の兵は、「姫若子」の思わざる活躍に驚くと同時に、「若君を死なすな!」と叫びながら反撃に出た。ことにも秦泉寺豊後は、

「しゃっ、槍の使い方を知らぬなどと申されて、さては若は、このわしをからかいなすったか」

と地団駄踏んで口惜しがったが、その眼はわが意をえたという風に満足げであった。

これに返り血を浴びた元親の貌がわらって、

「爺、悪く思うな、孫子のたまわく、兵は詭道なりけりじゃ!」

と言ってのけた。謀略は、まず味方を欺くことから始まるというのである。

 

 

土佐の出来人

長浜勝利の余勢を駆って、長宗我部軍は本山氏の支城の一つ、真如寺山上の潮江城攻撃にとりかかったが、城を一瞥した元親は、これは空城ぞ、無駄な弓鉄砲は使わず突入せよと下知した。

将兵の間に動揺が走った。この小勢で突入し、城内から乱射をうけたら一溜りもないではないかと危ぶんだ。が、元親は構わず山へ登り、城内へ単独突入しており、彼の予測の如く城内には一兵の姿も見られず、むなしく旗印がはためいているだけであった。

それで宿将が、空城と判断した理由を問うと、元親は「長浜から敗走した敵兵が、だれ1人として逃げ込まなかったではないか」と事もなげに答えた。この時のことを『長元物語』では、元親の明察に驚いた宿将たちが、

「持ちたる槍を地に置き、ひれ伏して申し上ぐるは、当国は申すに及ばず、四国の主に御成りなさるべき大将の御分別、自ら御生付なされると、口々に申上げ、拝し申す由」

と描写している。これまでの「姫若子」観など、消し飛んでしまったようである。

こうして長宗我部軍は、本山氏の支城2つ3つを陥す戦果をあげたが、この合戦中に国親の病気が悪化し、やがて余命いくばくとないと悟るや、枕辺に嫡男元親を呼んで、

「わしへの供養は、ただただ宿敵本山を討滅してくれることのみである。世法に従って法要を営むのはよいが、それが終わったら、ただちに喪服を脱ぎ、甲冑に着換えて、戦場へ赴くべし」

と遺言した。凄まじいばかりの、戦国武将の執念であり、さすがに元親も、まるで搏たれたように、思わず、力をこめて、

「確かに、承って候」

と応えていた。

その日から、夏雲がしきりに湧き上がり、崩れ落ちた午後、国親が波瀾の生涯を閉じ、跡を継いだ元親が、長宗我部氏21代の当主となった。かつて彼を「姫若子」と陰口した家臣たちも、今では心から信服しており、元親の白い貌も凛として冴えているのである。

元親は、亡父国親が編み出した、「一領具足」の精兵を率い、本山氏攻略を開始した。この家臣団は、常には農事にたずさわりながら、ひとたび合図の太鼓が鳴れば、鍬や鋤を槍や刀に代えて城へ馳せつけるのだ。むろん農繁期は出陣を避けるゆえ、宿敵本山氏を討滅して亡父の遺言を果たしたのは、9年後の永禄11年(1568)のことであった。以来、一領具足の家臣団を率いて出陣を重ね、天正3年(1575)には土佐全土を掌握し終えており、「土佐の出来人」と敬服された。

それからの元親は、一時は四国全土を制圧したが豊臣秀吉に抗して敗れ、桂浜を見下ろす浦戸城で、土佐一国の主として世を終わった。

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