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真田昌幸は、上田城をいつ、どのようにして築城したのか?―最新研究で謎を解く!



2015年10月02日 公開

平山優(歴史研究家、大河ドラマ『真田丸』時代考証担当者)

《PHP文庫『大いなる謎 真田一族』より》

真田 上田城

 

上田城は真田ではなく、徳川が造った?

 真田昌幸の城、といえば上田城が有名です。昌幸がその築城を始めたのは、天正11年(1583)4月のことです。これは、4月13日付の上杉景勝が書いた書状に「真田が海士淵(尼ケ淵)を取り立てて築城を始めた」とあることからわかります。ここに登場する「海士淵」(尼ヶ淵)には、かつて小泉氏の拠点・尼ケ淵城があり、その古城跡があったといいます。昌幸がこれに目を付け、大規模に拡張、改修したのが上田城とされます。

 上田城は、真田氏の新たな居城として築城が始められ、やがて近世城郭として豊臣時代、江戸時代に受け継がれたとされてきました。ところが2008年、元上田市立博物館館長の寺島隆史氏の研究により、もともとは徳川家康が徳川軍に命じて築城させた徳川氏の城で、後に昌幸に下賜されたものだという衝撃的な事実が明らかとなりました。それではなぜ、徳川の城だった上田城が昌幸の持ち城となったのか、またそもそもここに城が築かれた理由について説明しましょう。

 天正壬午の乱終結後、信濃の徳川方(依田信蕃、真田昌幸)は、なおも北条方として抵抗する国衆との戦いを繰り広げていました。ところが依田信蕃は、天正11年2月23日、佐久郡岩尾城を攻撃中に戦死してしまいます。それでも信蕃の戦死直後、北条方は小諸城を徳川方に明け渡して上野国に去り、佐久郡は徳川方によって平定されました。

 一方の昌幸は、小県郡の平定戦に着手していました。すでに天正10年閏12月までには禰津昌綱を降伏させていましたが、さらに勢力拡大を目指し、小県郡「河南」地域(千曲川南側一帯)に触手を伸ばします。

 ところが天正11年1月、「河南之者共」が昌幸の調略を拒んで蜂起。昌幸はこれを徳川氏への「逆心」だと喧伝して家康に報告し、家康から援軍を得たばかりか、この地域の平定をも許されます(「飯島文書」他)。

 これで大義名分を得た昌幸は、閏1月、丸子三左衛門(武田重臣・馬場信春の娘婿)が籠もる小県郡丸子城を攻め落とし、「河南之者共」のほとんどを降伏ないし滅亡させました(丸子氏は真田家臣となった)。こうして、昌幸は室賀氏以外の小県郡を単独で平定を実現します。

 しかし、昌幸の小県郡平定戦は、上杉景勝を警戒させました。景勝は真田の勢力が北信濃や筑摩郡に及ぶことを恐れ、天正11年3月、牧之島城主・芋川親正に警戒を厳重にするよう指示。また宿敵・北条氏と同盟を結んだ徳川家康を敵視し、その徳川氏に帰属した昌幸を攻め潰そうと考えます。

 昌幸が小県郡平定戦を仕掛けていたころ、家康は再び甲斐に出陣し、諏方高島城主・諏方頼忠を帰属させ、さらに北信濃への出陣(対上杉戦)をも構想していたようです。すでに家康は、上杉方の北信濃衆・屋代秀正と、深志(松本)城主・小笠原貞慶も従属させており、信濃の情勢は徳川方優位となり、北信濃の上杉領は重大な危機にさらされていました。

 家康の甲府出陣を知った上杉方は警戒を強め、両勢力の境目にあたる虚空蔵山城の防備を固めました。これを受け、徳川方の加津野昌春は3月15日、上杉家臣の長沼城代・島津忠直に、家康に信濃侵攻の意図はないと弁明する手紙を送ります。ところがその直後の3月21日、昌幸が虚空蔵山城を奇襲。これもおそらく、真田兄弟があらかじめ示し合わせた策でしょう。この合戦で、上杉方は甚大な被害を受けますが、辛うじて真田軍を撃退し、城を守り切りました。

 これに怒った景勝は、信濃に出陣しようとしますが、家康と結ぶ越中の佐々成政との対立が激化したため、出陣が困難となります。そこで景勝は4月、飯山城代・岩井信能に援軍派遣を命令しました。

 そうした最中、昌幸は上田築城を始めました。築城地は北国街道を押さえる要衝であり、虚空蔵山城と対峙する位置にあたります。もし築城が成就してここに徳川軍が集結すれば、境目の虚空蔵山城はもちろん北信濃の上杉領に大きな圧力をかけることができます。それだけに、この築城は徳川家康にとっても極めて重要であり、徳川軍が動員されました。

 つまり上田城は、本来は対上杉のための徳川氏の戦略拠点として築かれたものであり、おそらく真田領に立地することから、後に昌幸が拝領を願い出て、家康から許されたのでしょう。いずれにせよ昌幸は、徳川氏の力を借りて、自分の支配地域に、戸石城、松尾城と並ぶ有力城郭をまんまと手に入れることに成功したわけです。    

 もちろん、上杉景勝も上田城築城を傍観していたわけでなく、これを妨害し攻め潰すべく、北信濃4郡の将卒を虚空蔵山城に続々と集結させていました。しかし、その間隙をぬって深志城主・小笠原貞慶が青柳城に攻め寄せたため、上杉軍はこれと戦うべく転進し、それに勝利したことで北信濃に引き揚げてしまいました。こうして、上杉対徳川・真田勢の戦闘は回避され、上田城の築城は上杉方に邪魔されることなくほぼ完了したのです。

<著者紹介>

平山優(ひらやま・ゆう)

昭和39年(1964)、東京都新宿区生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、現在、山梨県立中央高等学校教諭。日本中世史に関する精力的な研究活動を行い、2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。
著書に、『武田信玄』『長篠合纖と武田勝頼』(以上、吉川弘文館)、『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)、『天正壬午の乱[増補改訂版]』(戎光祥出版)、『山本勘助』(講談社)、『真田三代』(PHP研究所)など多数ある。

 


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