エルトゥールルの奇跡~国を越えて、人々の命を救うとは?
2015年11月28日 公開 2018年12月12日 更新
イラン・イラク戦争で日本人を救ったオルハン・スヨルジュ機長夫人からの手紙
ちょうど、この文章を書いている時に、故オルハン・スヨルジュ機長の夫人、ヘルガ・スヨルジュさん(77)から手紙が届きました。
私は、エルトゥールル号遭難事故から長い歳月を経て、自分の夫が日本人を救いにいく役目を負い、そして、その夫の死後、日本に夫の名前が冠された記念園ができたことへの思いを質問させてもらっていたのです。
そこには、こう書かれていました。
<夫は、イランイラク戦争下のテヘランから215人の日本人を救出したことを誇りとしていました。いつも自分自身の務めに最善を尽くしていた彼にとって、この仕事がどれほど危険なものだったとしても、それを拒む理由はなかったに違いありません。
いつも夫は、正義について強い意識を心に抱いていましたし、何が正しく、何が間違っているのかについて、道徳的な感覚を持っていました。彼は危機にある人々を救うことに、何の疑いも持っていなかったはずです。実直な性格で、自分で何をなすべきかを熟慮し、決定し、そのように行動できる人でした。そして気配りに満ちた夫であり、3人の子供、シベル、アッティラ、スーザンにとって良き父でした。
ほとんどのトルコ人は、1890年のエルトゥールル号の遭難について知っていますし、その折に、日本人が勇敢に救援に尽力してくれたことも知っています。
夫と私は、1973年3月、国際定期航空操縦士協会連合会(IFALPA)の会議に参加するため、初めて日本を訪れました。私たちは日本の方々の親切さと、そして日本が清潔で素晴らしい国であることに胸を打たれました。
私は、下関にオルハン・スヨルジュ記念園がつくられたことを、とても誇らしく思っております。きっとこの記念園は、日本の皆さんの心の中に、夫とあの救出劇の記憶を結ぶための大きな役割を果たしてくれると確信しています。私もぜひ訪れたいと思っています。
トルコでは、このテヘランからの日本人救出を知っている人が、それほど多くいるわけではありません。しかし、トルコ人は皆、1999年のトルコ大地震の折に、日本政府や日本の方々が救援の手を差し伸べてくれたことをよく知っています。そして、その時に、助けに来て下さった日本の方が、不幸にも、その尊い命を落とされたことも……。
もちろん、日本の技術者の手で第二ボスポラス橋が建設されたことも、ほとんどのトルコ人の記憶に強く印象づけられています。
私は、トルコ人と日本の人々は、お互いのことを知ることで、より強い友情を培うことができるに違いないと、固く信じています。日本の皆さまが私の夫に敬意を抱いて下さることは、本当に幸せなことです。両国の友好のために少しでもお手伝いができれば、と考えています。
ヘルガ・スヨルジュ>
トルコ大地震の時に「不幸にも、その尊い命を落とされた」というのは、NPOの「難民を助ける会」に所属し、地震の被災地支援に駆けつけ、その活動中に新たに起こった地震で亡くなった宮崎淳さん(当時、41歳)のことです。
自分たちを助けるために、遠く日本から来てくれた人が命を落としたことは、トルコ人の胸に深く刻まれ、「ミヤザキ」と命名された病院や公園がトルコ国内に次々と誕生することになったのです。
日本でこそ、トルコ大地震の日本人犠牲者の記憶は過去のものになったかもしれませんが、トルコでは今も忘れられず、宮崎さんと日本への感謝の気持ちは、風化することなく、語り継がれています。ヘルガ・スヨルジュさんのお手紙の中にも、そのことが自然と触れられていたのです。
国を越えて、人々の命を救う―。
人としてのあたりまえの行為の中から生まれる「友情」や「信頼」の大切さ。ヘルガさんの手紙からは、そのことが伝わってくるような気がします。
自国民の命という、何にも代え難い貴重なものを、他国に委ねつづけてきた戦後日本。もし、逆に、「誰かの命」をわが身に委ねられた時、私たち現代日本は、いかなる態度と行動を示すことができるのでしょうか。
私は、そのことをどうしても考えてしまいます。