『PHP松下幸之助塾』2015年3・4月号Vol.22より一部抜粋転載
共存共栄の原点に返り改革を断行
1964(昭和39)年7月に、熱海ニューフジヤホテルで行われた全国販売会社代理店社長懇談会は、その後さまざまなところで取り上げられ、「伝説の熱海会談」として知られるようになりました。その運営を担当したのが、当時私の所属していた営業本部商務部です。
商務部では、売上を事業部別(商品カテゴリー別)に集計することを業務としていました。毎月、5日ごとに調べ、それを松下幸之助会長(当時)、そして社長、役員に報告する仕事です。もう1つ、営業の施策を考え、結果の点検をする仕事がありました。その一環として、商務部が熱海会談を担当することになったのです。
熱海会談の行われた1964年は、東京オリンピックが開催され、景気の上昇が期待されましたが、これまでの日本の高度成長の反動で同年から翌1965(昭和40)年にかけ日本経済は不況に突入。家電商品も、「三種の神器」と言われた白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機は会談の前年までに普及したこともあり、売上の伸びが鈍っていました。こうした状況にもかかわらず、松下電器を含めたメーカーは、今までどおりに商品をつくり続けていたのです。
当時はこの需給ギャップになかなか松下の社員全員が気づかなかったのですが、幸之助会長には見えていたようです。事実、販売会社や代理店の債権が急速にふくれ上がっていました。手形による取引が増え、商品が売れずに流通在庫になっている。
その実態は、幸之助会長に報告していた売上データからは見えません。ところが、幸之助会長はみずからの判断指数を持たれており、販売が急速に下落するという予兆をつかんでおられました。幸之助会長はさまざまな指標をお持ちでした。だれでも知っているBS(貸借対照表)やPL(損益計算書)だけではない。それ以上にいろいろな指標が頭の中に入っていたのです。そして、その数値や動きが健全かどうか、見事に整理しておられました。
危機の予兆に気づいていない幹部社員とは異なり、このままでは松下電器の経営も危うくなると察したのでしょう。そこで、販売会社や代理店の社長から、マーケットの状況や自社の経営実態を偽りなく率直に打ち明けてもらい、課題を共有し、対策を早急に打つために、熱海会談を開くことになったのです。