渡部昇一が語る「人間としての気概」
2017年07月25日 公開 2017年07月26日 更新
PHP新書『知的人生のための考え方』は、知の巨人・渡部昇一氏が遺した多数の名著から、思索のエッセンスを抽出。『渡部昇一の人生観・歴史観を高める事典』『わたしの人生観・歴史観』を追悼復刊したものです。
著者一流の知的生活への具体的なノウハウから、透徹した独特の歴史への視座まで、渡部人生学・歴史学の集大成といえる一冊です。本記事は、本書より、その一部を抜粋編集してお届けいたします。
人生とは自らの気概を作り上げる道程
気概を失っていないか
男児学ばざれば 即ち已む
学ばばまさに 群を超ゆるべし
………
いずくんぞ奮発して志を立て
もって国恩に答え もって父母を顕わさざるべけんや
これは『日本外史』や『日本楽府』を著わした頼山陽(1780~1832)が、まだ十歳半の時に書いた文章です。私は小学校の頃、この文章に発奮して勉学を志すようになったこともあり、私にとっては思い出深いものです。
この詩に流れる頼山陽という一個の人間の気概が、その後の頼山陽の自己実現を確かなものにしたように思えます。
ところで現代において、この気概という人間が持つ崇高な精神が非常に弱まってきているのではないかと、私は大いに懸念しているのです。
それは、戦後、間違った左翼思想に基づく教育が幅を利かせ、気概とか男らしさといった、人間として欠かせない精神的教育が置き去りにされたことや、間違った歴史教育で日本人の気概を失わせてしまったことに最大の理由があります。
しかし、その言及は第二部の歴史観に委ね、ここでは一個の人間としての気概の大切さについて明かしたいと思います。
「武」の精神と気概
この気概というものを考える時に参考になるのが、「武」の精神です。「武」の精神とは、自分の義務のために、いつでも死ぬということで、人間としては一番高貴な行為と言えるでしょう。
一切の暴力を退け、無抵抗のままに十字架に磔にされることを選んだキリストの教えを奉ずるキリスト教圏でも、武は常に尊ばれてきました。キリスト教国で「大王」とか「大帝」と呼ばれた中世の指導者たちは、いずれもキリスト教圏を侵す敵と戦場で戦い抜いた英雄たちでした。
日本でも、『葉隠』を引き合いに出すまでもなく、「一旦緩急あれば死をもいとわぬ」精神は、武士の精神として尊ばれ、崇められてきました。
私たちが、歴史小説や劇などで、「武」の精神に感動を覚えるのは、人としての素晴らしい生き方をそこに見るからなのです。
その例はいくらでもありますが、例えば私が子供の頃によく聞かされた佐久間艇長の話を紹介しましょう。
それは、日本海軍に潜水艇が初めて登場した頃のことです。瀬戸内海で一隻の潜水艇が故障し、浮上できなくなりました。乗組員全員が懸命に浮上への努力をする中、佐久間艇長は、なぜ浮き上がれなくなったのか、どこに故障が発生し、どのように修理しようとしたか、克明に書き続けました。電池がなくなり、明かりが消えると、潜望鏡から漏れるわずかな明かりを頼りにして、空気中の酸素がどんどんなくなっていく窒息状況の中で、渾身の力を振り絞って佐久間艇長は書き続けます。
「一人も持ち場を離れた者はなし。このような事故のために日本の潜水艇の発達が遅れないようにしてほしい。ここで亡くなった自分の部下たちの遺族の面倒は見てほしい」。最後にそういったことを書き残して、全員持ち場についたまま死ぬのです。
これは、アメリカやイギリスの海軍の教科書にも載って、海軍軍人の手本となったそうです。
これが「武」の精神なのです。武というものは、実際に戦争があろうとなかろうと、人間としての使命を持った人には厳として存在するものなのです。自分という人間を確立した人、そういった信念のある生き方をする人には、この「武」、言い換えれば気概があるのです。
逆に気概を失った時、人はその信念どころかこれまでの生き方の軌跡までもが噓となって、見るも無残に散っていくことになるのです。