1. PHPオンライン
  2. くらし
  3. 計算ずくで撮ったものが、はたして『映画』といえるのか

くらし

計算ずくで撮ったものが、はたして『映画』といえるのか

三池崇史(映画監督),聞き手:五十川晶子(編集者/フリーライター)

2011年10月31日 公開 2022年09月29日 更新

市川海老蔵が放つ“異物感”“違和感”

五十川 この『一命』にも『十三人の刺客』にも、大勢の侍が登場します。お家のためには一人ひとりの命は軽く扱われるわけですが、そのぶん、一人ひとりの闘うことへの意志とか背負わされているものが、現代からは想像もつかないような重いものだったのではないかと。だから集団となったときの迫力がとてつもないものだったのではないか。とくに、役所広司さんが今回の『一命』で演じた井伊家の江戸家老・斎藤勘解由に、その集団の長としての恐ろしさを感じました。

三池 勘解由のあのキャラクターは、役所さんが演じたから生まれてきたものなんですね。この役はこれこれこういう男で、こういう目つきでこんなヤツなんだよということを、僕が最初から、要求しすぎないようにしているんです。想定の範囲に納まってしまうと、撮っていてこちらがつまらなくなるので。

五十川 その斎藤勘解由は、薄暗い井伊家の座敷の、たったいま描かれたかのような、血糊でも滴っているのではないかと思えるほど生々しく荒々しい襖絵の前で、猫を抱いて座っている。何か思索しながら。それだけで「あれ、こういう存在感の武士像って、いままで観たことがなかった」と感じてゾクゾクしました。

三池 そう。ゾクゾクする。そんなふうに、観た人に「役所広司ってスゴイね」って、あらためて思ってもらいたい。それが監督の仕事だと思うんですよ。役者の魅力を広げたい、伝えたいんです。「市川海老蔵って舞台だけでなく映像もいいよね」「瑛太は瑛太らしくてすごくよかったね」「満島ひかりって、どうみても幸せになれそうもない感じがいいんだよね」って、演じる側も撮る側も現場で盛り上がって、それらがリンクして映画に反映されて、客席に伝わっていくんですね。

役者だけではなくて、スタッフについても同様です。「撮影したの誰? すごいよね」とか、「このライティングいいね」「美術、誰?」って思ってもらいたい。

五十川 さて、『一命』の主演は市川海老蔵さん。婿の切腹の謎を知り、単身で井伊家に乗り込む津雲半四郎役ですが、三池さんにとって、彼はどんな役者でしたか。

三池 やはりメガトン級の役者ですよ、彼は。撮っていて面白かった。いまはプロダクションの言うことをよく聞いてくれる役者が重宝がられる傾向があります。時間どおりに約束の場所へ現われて、台本どおりにしゃべって、さわやかに「お疲れさまでした!」といって帰っていくと、誰もが「ああいい子だね」と思う。そういう存在は便利かもしれないけれど、僕にとっては、いまひとつドキドキするような存在にはならない。

五十川 海老蔵さんにはドキドキさせられましたか。

三池 彼は現場で誰よりも真剣でしたからね。なにしろ周囲のスタッフへの要求水準が高いんですよ。とくに衣裳や鬘など職人への要求がね。だから最初はみんな、「えらくやっかいなことになるんじゃないか」と戦々恐々でした。でも撮影が進むにつれて、「すごく面白い役者だな」とわかってくる。もうね、終盤では現場のアイドルでした。やはり大スターです。

五十川 歌舞伎役者として、映像の役者とは違う魅力がありますか。

三池 台本に対するアプローチが違うんですよね。たとえば撮影の終盤になって、「その目つきはいまのそのやり方じゃなくて、シーン○○のときのこれこれこういう台詞を聞いたあとの目でやって」と僕がいうとします。すると海老蔵さんはそのシーンの気持ちと表情を思い出すために、最初からずーっと一人で全員の台詞をしゃべって、その瞬間を再現していくんですよ。一人でブツブツと。「役所さんがこうこう、で、オレがこうこう。で、○○でございます、でこれこれでございます……いったあと、ここで見開いた目ですか? あ、違う? じゃあ、これこれこうでございます……」と延々と繰り返す。そして「あ、わかった! この台詞をいったときの、この目つきですね」ってたどり着くんです。そのあいだは、ずっと海老蔵さんの一人芝居を観せられているようなものでした。すごく興味深かったですね。

五十川 台本のそのシーンにパッとスイッチするのではなく、作品のなかの時間軸に沿って、気持ちの流れをその都度追体験していくということですね。映像の役者はそういうやり方はしないですか。

三池 基本的にしないですね。今回初めてわかったのですが、僕ら映画のスタッフや役者というのは、台本は消化するもの。撮ったシーンから破り、終わらせていくものです。映画の役者はおそらく二度と、同じシチュエーションで同じ台詞をいうことはありえません。でも伝統芸能の人たちは、一度やった作品をいずれ必ずまた演じる。しかも、いずれは次の世代に伝えなくてはならないという使命がある。だから、台本の読み方が全然違う。人によっては映像と舞台の台本の読み方を使い分けるのでしょうが、海老蔵さんは映画だからとやり方を変えなかったですね。それもあって市川海老蔵の存在そのものが、「あ、周りと違うんだな」という“異物感”“違和感”を醸していた。それがそのまま井伊家の家臣団に囲まれて、中庭に一人座っている津雲半四郎になるわけですね。

五十川 海老蔵さんが演じる津雲半四郎の端正な不敵さに直面して、井伊家の人たちが「こいつは誰なんだ」「なぜここに来たんだ」と戸惑っている様子に強烈なリアリティーがありました。

三池 そうなんだよ。井伊家の勘解由とも、井伊家のほかの誰とも、話しても話してもいっさい交わることができない。それどころか、家族とも同じ目線で交わっているかというと、そういうのでもない。「なぜ君だけほかの役者の雰囲気と違うんだ」という海老蔵さんの存在感を津雲半四郎の役に、活かすことができましたね。

次のページ
オリジナリティーなんてどうでもいい

関連記事

アクセスランキングRanking

前のスライド 次のスライド
×