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天命思想、易姓革命がもたらした中国史の悲劇

石平(評論家/拓殖大学客員教授)

2018年02月05日 公開 2024年12月16日 更新

天命思想、易姓革命がもたらした中国史の悲劇

※本記事は、石平著『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
 

政治権力を正当化する「御用思想」としての儒教

中華文明は、世界最古の文明の一つであり、とりわけアジアにおいて圧倒的な影響を周辺諸国に与えつづけてきた。だが、東アジアにおいて、ただ一つだけ、中華文明から完全に脱却し、独立自尊の文明国として立ちえた国があった。

その国こそ、日本である。

なぜ日本は、これほど巨大な中華文明から離脱することができたのか。このことについて考えるためには、まず初めに、思想としての「中華」とは何かということを明らかにしておかねばなるまい。

中国の長い歴史のなかで、特に紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけての春秋末期と戦国時代において、いわゆる「諸子百家」と呼ばれる思想家が輩出した。儒家、道家、墨家などの思想である。

しかし紀元前206年から中国を支配した前漢王朝の時代、皇帝の政治権力によって「儒家の思想」だけが国家的イデオロギーに祭り上げられて、いわば「国教」としての儒教となった。それ以降の2千数百年間、「儒教思想」はほとんどの期間を通じて支配的地位を保ち、中国思想の中核をなしてきた。

儒教は、中国の「国教」として君臨したその長い歴史を通じて、皇帝の権力を後ろ盾として中国における支配的地位を得ていた。当然、儒教は皇帝に奉仕するべき存在であった。そのために儒教は皇帝の権力と権威を正当化するような思想と化してしまい、いわば「御用思想」としての性質を帯びるようになった。

というよりもむしろ、最初から政治権力を正当化するような性格を持っていたからこそ、儒教思想は漢王朝皇帝のメガネに叶って国家的イデオロギーとして採用されたのである。そして同じ理由によって、儒教は前漢王朝以後の中国歴代王朝でも重宝されつづけた。

かくして、前漢王朝以来の中国思想史において、政治権力を正当化し、それを補完する役割を担うことが、儒教思想の最大の特徴となった。このような儒教思想が、中国思想の中核を占めてきたのである。

日本が中華文明からの影響を受け始めたのは、前漢王朝のあとの後漢時代(西暦25〜220年)であり、中国思想が本格的に日本に伝来したのは、後漢の時代から遥かのちの隋(581~618年)や唐(618~907年)の時代である。したがって、日本に伝来して、さまざまな影響を及ぼした中国思想は当然、「儒教」を中核とする中国思想であった。

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天命思想が、なぜ中国史の悲劇を生んだのか

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