人生、修行時代があってこそ成長できる
2018年01月31日 公開 2023年04月05日 更新
円覚寺(神奈川県鎌倉市)
澄んだ心でつく鐘の音は心の底にしみわたる…横田南嶺
禅の修行に、「公案」という問答があります。修行僧は難しい問題を与えられて責められ続けるわけです。しかもこれらは究極、答えがないものだと思います。
すぐ答えが出るものは大したものではありません。修行では、答えの出ないものにずっと取り組み続ける忍耐を学んだのかな、と思います。
この世は答えが出ないものばかりです。大震災もそうです。なぜ東北や熊本、大分に震災が起きたのか、なぜ東北や熊本、大分の方々があんな目にあわなければならないのか。答えはありません。
「あなた方はこうだったから、こういう目にあいました」と言えるような簡単なものではないのです。答えはないけれど、私たちはそれを受け入れて生きていくしかありません。
禅の語録にこうあります。答えの出ない問題を抱いて、一生懸命答えを見つけようともがき、苦しむ。もがくうちに、答えは見つからないが、心の垢が落ちていくのだ、と。苦しみながら、その人の心が清らかになっていくのです。それは口だけではダメで、禅問答で、この人の答えがよかったからといって、同じことを言っても通じません。
私が最初についた師匠がよくこう言っていました。「修行とは耐えることだ。ただひたすら耐えろ」と。最初は意味がわかりませんでした。でもお経の中に、「ひどい目にあってもそれに耐えれば、本当はもっと大変な目にあうかもしれない自分の業が清められるのだ」という言葉を見つけてから、つらいことがあっても「その分自分は清らかになるのだ」とありがたく思えるようになりました。
円覚寺には若い修行僧が何人も寝泊まりして修行に励んでいます。彼らが交代で鐘をつくのですが、つく音が毎回違います。苦しんで苦しんで、心底苦しんで自分に向き合っている者が鐘をつくと、音がしーんと心の底までしみわたってくるようないい音がします。「ああ、今日の鐘は澄んでいて、いい音だったな」と思えます。
「心の石鹸」という言葉があります。答えが出ない理不尽なことに、もがき、苦しみながらも生きていくことが、心の石鹸のように、その人の心の垢を落とし、清らかにしていくのではないでしょうか。