『嫌われる勇気』著者・岸見一郎が考える「死」と「愛」の関係
2018年02月14日 公開 2024年12月16日 更新
人間はいつか死ななければならない。「死」は我々の幸福を脅かす存在として、誰しもに平等におとずれ、そこから逃れることはできない。しかし、「愛の経験」は、その恐怖に抗うことができる……。そう語るのは、世界で400万部を超える超ベストセラー『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)の著者であり、アドラー心理学ブームの火付け役である岸見一郎氏だ。岸見氏が「ずっと書きたいテーマだった」と語る、2月15日発売の新刊『愛とためらいの哲学』(PHP新書)から、一部を抜粋して紹介する。
永遠とは「今ここ」に生きることである
誰かを好きになった際に、この愛はいつまで続くのだろうかと考えない人はいないでしょう。最終的には死が二人を分かつことになりますが、死の前に別れることもありえます。
よい関係であっても、あるいは、よい関係であるからこそ、二人の愛が今後どうなるか不安にもなるでしょうし、いつまでも今のこの幸福な瞬間が続いてほしいと願うことでしょう。
愛し合う二人は永遠の愛を誓い合います。しかし、幸福な二人が願う「永遠」とは、今という瞬間が無限に引き伸ばされたような時間としての「永遠」ではありません。この「永遠」について、ドイツの心理学者であるエーリッヒ・フロムが適切に表現している言葉を借りると、次のようです。
「愛すること、喜び、真理を把握することの経験は時間の中で起こるのではなく、今ここで起こる。今ここは永遠である。即ち、無時間性である」(Fromm, Haben oder Sein)
「キーネーシス」と「エネルゲイア」
例えば、ダンスをする時、踊ることそれ自体に意味があるので、ダンスをすることでどこかに移動しようと思う人はいないでしょう。踊ったことの結果として、どこかに到着するでしょうが、どこかに行くことを目的にダンスをすることはありません。移動することが目的なのであれば、踊らずにただ歩けばいいだけですから。
愛の経験はダンスをする時の喜びに似ています。いつまでもダンスを続けることはできません。音楽が止んだ時、ダンスは終わります。しかし、ダンスをしているまさにその時には、このダンスはいつまで続くかということが意識に昇ることはありません。アリストテレスは、ダンスのような動きのことを「エネルゲイア」(現実活動態)と呼んでいます(『形而上学』)。
これに対して「キーネーシス」と呼ばれる動きがあります。この動きには始点と終点があって、終点に着くまでの動きは、まだ終点に達していないという意味で未完成で不完全です。
他方、エネルゲイアにおいては「なしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことです。ダンスのようなエネルゲイアとしての動きは、どこかに到達しなくても、瞬間瞬間が常に完全なのです。
生きるということも、エネルゲイアです。生まれた時を始点、死ぬ時を終点と考えるのは一般的ですが、生きること、人生を、このようにしか見ることができないのかどうかは自明ではありません。
若い人に、今あなたは人生のどのあたりにいると思うかとたずねると、折り返し地点のずいぶん前の方にいるという答えが返ってきます。しかし、誰も自分が何歳まで生きられるかはわからないのですから、ひょっとしたら、もうとっくに折り返し地点を過ぎているかもしれないのです。
しかし、これはあくまでも人生を始点と終点がある運動(キーネーシス)と捉えた時の見方であって、生きるということをエネルゲイアと捉えれば、人生の「どこ」にいるかということは問題になりません。人生はいつも完成しているのですから、若い人が亡くなった時によく使われる「道半ば」というような表現すら意味を成さないことになります。
「愛」だけが「死」に抗うことができる
愛の経験もエネルゲイアです。つまり、初めと終わりというようなものがあるわけではなく、愛のいずれの段階も完全なものです。今ここに、無時間性の中で起こる愛の経験においては、それがいつまで続くかというようなことは少しも問題にならないのです。
愛の経験によって、時間の延長ではない、無時間性としての永遠の中に生きることができるようになった二人は、人生についても違ったふうに見ることができるようになります。
人間はいつか死ななければなりません。その死は幸福を脅かすものとして現れます。死が怖いのは、それがどういうものか、生きている限り、誰も経験できないからです。しかし、今、自分が愛する人と永遠の中で生きることができていれば、死がどんなものであるかは問題ではなくなります。「今ここ」に生きることだけが重要だからです。
誰もが一人で死んでいかなければならないという意味では、死は絶対の孤独です。森有正が「死が絶対の孤独であるとすると、生の中からはじまるこの孤独は死の予兆である」といっています(『流れのほとりにて』)。しかし、この生における愛の経験はこの孤独に抗うものであり、その意味で愛の経験は、永遠の予兆、それどころか、永遠そのものといえます。