禅と武士道の共通点とは~一命を投げ捨てて何者かのために生きる
2018年07月04日 公開 2024年12月16日 更新
アップル社の創業者であるスティーブ・ジョブズは、日本の禅と武道の思想を説いた『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル著)を生涯の愛読書としていた。日本人の精神のあり方に深い影響を与えたこの「禅」と「武士道」の精神から、混迷する現代を生きる私たちは、何を学ぶべきなのか。
禅の名僧である臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺猊下と、武士道の教えを様々な活動を通して実践する執行草舟氏が、偉大なる2つの思想の真髄を語り合った。
写真撮影:永井浩、取材構成:辻由美子
否定の先にある生命の輝きが禅の本質
横田 「禅と武士道」についての対談ということですので、まず私から禅についてのお話をさせていただきます。実は私自身、経営に活かせるとか、健康にいいとか、そういうことを全く考えずに坐禅をしてきました。ですから、私は仏教の経典の中でも『般若心経』に心をひかれます。『般若心経』は最初から最後まで全部が否定。すべてに「空」とか「無」という言葉をつけて否定します。
否定して、ではどうすればいいのかというと、期待をしないのです。否定の先に何かあるだろうという期待さえもしない。
執行 期待は人間から卑しいものを引き出します。私はロシアの小説家・ドストエフスキーの作品を死ぬほど読みましたが、彼の文学は否定の否定の否定を通り越して、その先を見ていく。すると軽い意味の希望ではなく、本当の憧れ、つまり真の生命感がつかめます。
禅の開祖といわれる達磨の「面壁九年」(九年間も壁に面して坐禅し、悟りを開いたという故事)ではありませんが、禅僧たちが自己を否定し続けている姿を見ると、見ている人間の生命力が上がってくるのです。それが、宗教の本当の役目なのではないでしょうか。
実をいうと、私も武士道や禅を経営に使ってほしくはありません。ただ結果論として否定の哲学によって養われた胆力が、経営や、危急存亡の時にさえ役に立つことはあります。
日露戦争で旅順攻防戦を指揮した乃木希典陸軍大将が南天棒老師(中原鄧州〈とうしゅう〉、明治・大正時代に活動した臨済宗の僧侶)に参禅して、「趙州(じょうしゅう)の露刃剣(ろじんけん)」(無は刀剣の如き切れ味を持っているの意)の公案(禅の精神を探究するための問題)を授かってから旅順に向かうのですが、二百三高地で、乃木大将がどうしてあれだけの苦しみに耐えられたのか。まさに否定の哲学が、役に立ったのだと思います。否定して否定して否定していけば、必ず生命の本質にふれます。その本質が歴史的な大業をなせる原動力になるのです。
何者かのために一命を捨てて生きられるか
横田 自己を否定するという意味では、禅と武士道は共通する部分があると思います。先生は武士道の始まりは何だったと考えていらっしゃいますか。
執行 一般的に、武士道は源氏や平家の時代に現れたといわれています。でも私は神武天皇の頃から武士道があったと思っています。天孫降臨の時に詠まれた歌の中に武士道を感じるのです。あの有名な、「海行かば 水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍……」です。
神武天皇とその武門の家来である大伴氏や物部氏が、日本をどういう国にしたいのか、そのビジョンや精神が地方に広がり、土着の日本人に受け継がれて、武士道になっていったのではないでしょうか。
私は武士の中でも、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗が特に好きです。元軍と戦った彼に、日本の武士道の根源を見るからです。管長がいらっしゃるこの円覚寺が時宗によって建てられたものだと知った時は、管長との出会い、円覚寺との出会いという偶然に、驚くとともに身震いしました。
横田 時宗自身は元々気の弱い性格だったと文献に書かれています。でも18歳で国政を任せられ、20代で文永の役、30代で弘安の役に直面します。若い青年が一人で国難に立ち向かうのはかなり大変だったと思います。
だから参禅を繰り返し、自分の心を見つめる鍛練をして乗り越えていくわけです。中国からわざわざ無学祖元をお招きし、元軍と日本軍の戦死者の両方を弔うために円覚寺を創建しました。
まさに、一命を投げ打っても守るべきものがある。その意味では元軍も、日本軍も、時宗も同じでした。
執行 禅と武士道の共通点は、一命を投げ捨てて、何者かのために生きることです。一番尊い自分の命を投げ捨てることが前提にあると思います。それが、時宗に本質的な武士道を感じる理由です。時宗には、打算を超越した歴史が生む意志を感じるのです。
円覚寺を開山した無学祖元も南宋にいる頃に、元軍の兵士に取り囲まれて斬りかかられたことがありましたよね。
横田 その時、詠んだのが有名な「臨刃偈(りんじんげ)」です。全文を紹介します。
乾坤(けんこん)、弧笻(ここう)を卓(た)つるに地無し、
喜得(きとく)す、人空(にんくう)法も亦(ま)た空なるを。
珍重す、大元三尺の剣、
電光影裏(ようり)、春風を斬る
要約すると、この広い大地すべてが杖を立てる隙間もないほどあなた方のもので、私は逃げ場もありません。でも、私はすべてが「空」ということを知っています。あなた方は立派な剣で私を斬ろうとしていますが、稲妻が春風を斬るようにさぞかし手応えのないことでしょう。さあどうぞご自由に斬りなさい……こう言ったのですね。
兵士たちが言葉を理解できたかどうかはわかりません。でも、無学祖元の佇まいに圧倒されたのではないかと思います。
本記事は、マネジメント誌「衆知」連載《禅と武士道 第1回「深遠なる真髄」》(2018年3・4月号)より、その一部を抜粋編集したものです。