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生き方

「人生を輝かせる」50代の生き方~禅の知恵に学ぶ

枡野俊明(建功寺住職/庭園デザイナー)

2014年08月22日 公開 2023年05月08日 更新

「人生を輝かせる」50代の生き方~禅の知恵に学ぶ

50代というのは、人生の中で最も楽しく輝く時期だと言えます。これまで積み重ねてきた経験もあります。楽しいことだけでなく、辛いことや苦しいこともたくさん経験している。その経験は必ず心の糧として蓄えられています。

少しだけ家族や仕事から解放され、自分次第で何でもできる可能性がある。まだまだ夢を叶えることは十分にできます。これまでの人生でやり残したこと、やりたかったことに再び挑戦することもできます。自由自在に自分の人生を歩いて行くことができる、まさに50代というのは、人生における「自在期」なのではないでしょうか。

本稿では不安や迷いから解き放たれ、心に余裕が生まれて穏やかになる禅の知恵を、僧侶である枡野俊明 氏がやさしく紹介します。

※本稿は、『50代を上手に生きる禅の知恵』より一部抜粋・編集したものです。

 

何もすることがないという悩み

「毎週、土曜日と日曜日がくるのが苦痛だ。そういう男性が意外と多いんですよ」。本書を担当してくれた編集者が私にそう言いました。土曜日と日曜日は休日です。せっかくの休日がどうして苦痛になるのか。私は一瞬理解することができませんでした。よく聞けば、こういうことです。

会社の中で50歳を過ぎてくれば、それまでのように特に仕事に追われることが少なくなります。40代までのように、休日出勤をすることもなくなってくる。確実に週に2日休むことができるわけです。

何か趣味を持っている人は楽しい休日を過ごすことができますが、無趣味な人は土日にすることがありません。子供たちも大きくなっていますから、どこかに連れていくこともなくなります。

奥さんはといえば、地域の友達などと連れだって出かけていく。残された自分はただ家でだらだらと過ごすだけ。こんなことなら会社に行っていたほうがマシだと。

結局は一日中テレビをぼーっと見ながら過ごしている。身体の疲れをとるためだと自分に言い訳をしながら、何もせずに一日を過ごす。これではかえって身体が疲れてしまう。

何とももったいないことだと私は思います。その一日というのは、もう二度とは戻ってきません。確実に残された日が少なくなっている。その一日がどれほど貴重なものかを知ることです。何もすることがない。それは嘘です。することを自分で探さないだけです。

やるべきことはいくらでもあります。もしもすることがないというのなら、私は生産活動を見つけることをお勧めします。家に庭があるのであれば、花や野菜を育ててみる。散歩に出かけて、美しく咲く花の写真を1枚でも撮ってみる。どんなことでもかまいません。

生産活動というのは、具体的なものを生み出すことだけではない。それは、自分が持っている能力を使って、何らかの活動をすることだと私は考えています。たとえば野球が得意ならば、少年野球の子供たちに教えてあげる。サッカーの練習につきあってあげる。それもまた立派な生産活動だと思います。

自分にはどんな能力があるのか。自分にできることは何か。まずはそこに目を向けることです。能力が何もないという人など1人もいません。

50年も生きていれば、必ず自分にしかない能力が身についているはずです。そしてその能力は、お金などの利益を生むものでなくてもかまわない。子供たちに野球を教えて、「ありがとうございました」とお礼を言われる。その喜びはお金に換えることはできないでしょう。

とにかく身体を動かして、一日を充実させることです。何もせずにだらだらと過ごしている。そこには必ず不安や心配事が忍び寄ってきます。何もすることがないから、つい余計なことまで考えてしまう。明日の仕事のことを心配したり、来てもいない将来に不安を抱いたりする。

多くの不安感というのは、言ってみれば暇な時間の中に生まれるものです。庭にでて、ひたすら雑草を抜く。余計なことを考えずに、ひたすら雑草を抜くことだけに心を集中させる。そんなときに不安が忍び寄る隙間は生まれないものです。

「一日不作 一日不食」という有名な禅語があります。この言葉は、中国の唐代に活躍した百丈懐海禅師の言葉に由来するものです。

百丈禅師は、80歳を過ぎても若い修行僧と一緒になって畑仕事に励んでいました。朝の掃除から始まり、農作業まで一生懸命に励んでいた。さすがに高齢ですから、弟子たちも心配でたまりません。

何とか農作業だけでもやめさせたい。それでも言って聞くような師ではありません。そこで弟子たちはある日、師の農具を隠したのです。農具がなければ作業をすることができない。これで諦めて身体を休めてくれるだろうと。

百丈禅師は仕方なく農作業を休みました。ところが農作業を休んだその日から、禅師は食事を口にしようとしません。弟子たちはその理由を問いました。そこで返ってきた言葉が、「一日不作、一日不食」だったのです。

禅僧にとっての作務とは、生きていくための基本的なものです。禅僧としてやるべき大切なことなのです。つまり作務を怠るということは、すなわち自らに与えられたやるべきことをなしていないことと同じ。やるべきことをなさないのですから、その分食事をしないことは当たり前なのだと。

「働かざる者、食うべからず」と解説した言葉も聞いたことがあるでしょう。ここで言う働くとは、利益を生み出すことではありません。自分自身に与えられた使命や、自分の持っている能力を使うことこそが、働くということなのです。成果を上げないから食べるなという意味ではないのです。

自分にとってやるべきこととは何か。自分が持っている能力を生かす場はどこにあるのか。損得勘定などせずに、誰かの役に立てることはないか。それを考えることです。何もすることがない。それはやるべきことを探していないということ。

やるべきことや自分の能力から目をそむけ、ただ漫然と生きているだけです。そしてそれこそが、もっとも無駄で不幸せな生き方であることに気づいてください。

本当にやることが何もなければ、それは死んでいるのと同じ。命ある限り、誰もがやるべきことを持っている。大切な休日を死んだように過ごしてはいけません。

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