⼩説が好きならば、誰にでも書く才能がある
2018年08月01日 公開 2024年12月16日 更新
小説を書くことについては、才能があるとかないとかよく耳にするけれど、それ以前の問題として「小説が好きか嫌いか」で、書くための資質が決定されると思う。
つまり才能とは、たとえれば異性の美醜に対する評価のようなもので、美しい人はほとんどの人が一見しただけで美しいと思うし、その逆もそういうことになる。
そういうあたりの違いは確かにあって、それは持って生まれた格差なのだから如何とも仕方がない。
ただ小説についていうと、それは書かれた作品や文章に対する評価として言われるもので、これから書く作品や著者を決めつける評価基準ではない、と考えればいい。
要は書くための資質を上手に育んで、輝きのある作品をものにしてしまうこと。それができたら、結果としてのその作品の輝きが、才能という評価へ繋がるということだと思う。
そしてもし、才能ある作品をものにできたら、その評価は作者にフィードバックされ、あれを書いた人だからということで、才能のある人だと評価(あるいは勘違い)されることになる。
私には文才がないから小説など書けない、と言う人がいるけれど、それは書いてみなければわからないことで、食わず嫌いでしかない。
下手な俳句でもひねってみれば、それが他人から見て噴飯物の駄作であっても、本人の生きる上での興味の範囲が新たに広がっているのだから、その範囲では有益だと思う。
小説を読むのが好きなら、すでに「書く資質」はある
才能溢れた作品をものにするには、ある種のノリとか運とかが介在するのは仕方がないけれど、手広く継続していくこと、そしてほどよい粋をつかむこと、その機会を上手に獲得するしかないのだろう。
つまり、言ってしまえば、自分に才能があるのかないのか、そんなあたりをうだうだ考えても時間の無駄ということだ。とりあえず、楽しんで書いていくことしかない。
小説が蛇蝎の如く……とまでは言わないが、ピーマンとかニンジンくらい嫌いで、そんなもの読みたくも食べたくもない、という人はさておき、小説を書いたことのあるなしよりも、小説は嫌いではない、ということが、ここではとても重要なのだ。
だから小説など書いたことがない、という人も、気後れする必要などさらさらない。
作品にもよるけれど、小説作品を読んで楽しむことができる、という人は、すでに小説を書く資質の何割かを、潜在的にマスターしているといって過言ではない。