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苦境の中で学んだ衆知を集める経営の大切さ~土屋公三・土屋ホールディングス創業者会長

マネジメント誌「衆知」―幸之助さんと私

2018年11月27日 公開 2022年08月25日 更新

苦境の中で学んだ衆知を集める経営の大切さ~土屋公三・土屋ホールディングス創業者会長


 

土屋公三(土屋ホールディングス創業者会長) 
つちや・こうぞう*1941年北海道生まれ。啓北商業高校を卒業後、聯合紙器(現レンゴー)に入社。’69年に不動産を取り扱う土屋商事を創業。’76年丸三土屋建設を設立(’82年土屋ホームに商号変更)。2008年持ち株会社・土屋ホールディングス会長に就任。著書に『生きがい、やりがいを育てる―土屋ホーム、成長の軌跡』(致知出版社刊)などがある。

松下幸之助の考え方を土屋ホームの経営に活かし、数々の苦難を乗り越えてきた土屋公三氏。幸之助について深く学び始めたきっかけから、最も影響を受けた教えまでを語っていただいた。

聞き手:渡邊祐介(PHP研究所 経営理念研究本部 本部次長)
構成:坂田博史
写真撮影:永井浩
 

松下幸之助を学び始めたきっかけ

――高校ご卒業の際に、恩師から松下電器産業(現パナソニック)への入社を勧められたそうですね。

土屋 ちょうど今の天皇陛下がご成婚された昭和34(1959)年のことです。私の同級生の多くは大手家電メーカーに入社したのですが、先生は私には松下電器を勧められました。

先生がどうして私に松下電器を勧めたのか、その理由はわかりません。正直に言いますと、当時は、松下電器のことも、松下幸之助さんのことも、よく知りませんでした。

私は北海道の農家の次男坊で、家族に勤め人はいません。親から「どこどこの会社に入れ」と言われることもなく、自分で行きたい会社を選ぶような能力もありませんでした。そんな状況でしたので、高校の先生が「土屋は松下を受けなさい」と言われたので、あまり深く考えることなく松下電器の採用試験を受けたのです。

札幌での採用試験はなく、仙台へ試験を受けに行きました。私としては、かなり頑張ったつもりなのですが、残念ながら不採用でした。

それで先生から「次は、ここを受けなさい」と言われて採用試験を受けたのが、聯合紙器(現レンゴー)と、日新火災海上です。今度は、両社から採用通知を受け取ることができました。先生に相談した上で、段ボール製造業のトップ企業である聯合紙器に入社を決めました。

聯合紙器では資材部門や営業部門、労働組合の書記長なども経験しましたが、自分で商売をやってみたいという気持ちが大きくなって退職。その後は不動産会社などで経験を積み、昭和44(1969)年6月12日に、今の土屋ホームの前身となる土屋商事を創業しました。

これは余談になりますが、昭和62(1987)年だったと記憶していますが、松下電器の社長を務められた山下俊彦さんと一緒の場で講演をしたことがあります。講演の時間は違いましたが、ご挨拶した時に「いやあ、土屋さんが松下に入っていたら、社長になっていたかもわからない」と冗談を言われました。私は社長時代は目がきついとよく言われました。山下さんも冗談を言いながらも、非常に鋭い目をしていたのが、強い印象として残っています。

――土屋会長が、松下幸之助について深く知るようになったきっかけと、印象に残る言葉などを教えていただけますか。

土屋 幸之助さんのことを知り、学ぶようになったのは、今の土屋ホームを一人で創業した後のことです。経営者としていろいろ学ぶ必要を感じていた時、大阪のタナベ経営の創業者である田辺昇一社長の出版記念講演を聴く機会に恵まれました。その時の田辺社長の話の多くが、幸之助さんについてでした。この時初めて、自分が採用試験を受けた会社はこんなにもいい会社だったのかと知ったのです。

そして、幸之助さんの話を直接聴く機会が訪れたのは、昭和55(1980)年、大阪の青年会議所の大会での講演だったと思います。幸之助さんは、もうかなりご高齢だったため声が聞き取りづらく、お話はされるのですが、秘書の方が通訳をするようなかたちでした。会場の隅っこではありましたが、幸之助さんを直接拝見できただけで感動しましたね。お会いしたのは、それが最初で最後となりました。

その後も、幸之助さんの著作などを通して教えを学びました。まず印象に残ったのは、「衆知を集める」ということでしょうか。それは、私なりの経験があったからです。

土屋商事の時代です。会社の経営がなかなかうまくいかず、悩んでいた時に、社員一人ひとりと面談をしたことがあります。その際、いい話は聞くことができるのですが、問題点や課題については、社員からなかなか話してもらえませんでした。

私は、聯合紙器に勤めていた時に労働組合の書記長をやった経験があったので、社員には会社への不満や経営に対する意見があることはよくわかっていました。私は、経営者としてそれが知りたかった。「衆知を集める」という言葉は、その当時まだ知らなかったと思いますが、まさに社員みんなの知恵を集めたかったのです。

そこで一計を案じ、私のいない場で、社員だけで話し合ってもらい、誰が何を言ったかわからないかたちで会社や経営に関しての要望や提言を書面にまとめてもらうことにしました。

そうしたら、まあビックリ。私が社員のため、お客さんのため、将来のために一生懸命努力していたことが、社員からすれば逆に迷惑だとか、うるさすぎるなどと指摘されていたのです。それを読んだ時には、頭に血が上って「何を考えているんだ」と思いました。しかし、よくよく考えてみると、社員の言うことにも一理あるのに気づきます。

そして、三日間ぐらい考えて、完全に冷静になってから、朝礼で要望や提言などについて自分の考えを話すようにしました。

こうしたことを何回か繰り返すうちに、問題点が少しずつ解決され、会社の経営もよくなっていきました。

やはり、社長からの見え方と社員からの見え方は違うものです。その違いを知るためには、社員の生の声を聞くしかありません。社員の知恵を集めることは、経営において非常に重要であると気づかされました。

これが、後に幸之助さんの「衆知を集める」という言葉が心に響くことになったきっかけだったと思います。

私にとっては、経営の神様は松下幸之助さんで、経営の師匠は田辺昇一さんといえるかもしれません。

※本稿は、マネジメント誌「衆知」2018年7・8月号より転載したものです。

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