<<江戸から昭和時代にかけ、千葉県から輩出した50余名の力士の生涯を追った異例の研究書が発刊され話題を集めている。それが大相撲史研究者の谷口公逸氏による『房総大相撲人國記(ぼうそうおおずもうじんこくき)』である。
谷口氏によると、千葉県出身力士に絞って書かれた書籍は非常に少なく、半世紀前に刊行された『千葉県と相撲』と題する小冊子を最後に、情報がアップデートされていなかったという。
同氏は、力士たちの生家・子孫・墓所・史蹟などの現場を訪ね歩き、江戸時代から昭和時代にいたる絢爛たる相撲史を紐解きながら、上総、下総、安房出身力士の記録をまとめあげた。
同書において、「海外に初めて紹介された力士」である小柳常吉について検証している。「腕自慢の艦隊員を次から次へと組み伏せた」とする日本の文献とアメリカの文献を、谷口氏が比較しながらその実際を検証している。本稿ではその一節を紹介する。>>
※本稿は谷口公逸著『房総大相撲人國記』(彩流社刊)より一部抜粋・編集したものです
人気力士ゆえに負けても番付が下がらなかった?
今から約160年前の嘉永7年(1854)、本当の"黒船襲来"で日本に開国を迫った、ペリー提督(1794~1858)に関係する。
ぺリーが帰国後に著した"Narrative of the expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan"(邦題『ペルリ提督日本遠征記』)の第20章で、唯一、“KOYANAGI” と紹介された力士である。
日本人力士のしこ名が海外で紹介されたのは、筆者の知るかぎり本稿に登場する「小柳常吉」が第一号である。
小柳常吉は、徳川11代将軍家斉の治世、文化14年(1817)8月、上総國市原郡上高根村(千葉県市原市上高根)に父高石利助、母まつの長男として生まれ、名は桂治。生家は質屋を営むかたわら農業をしていた裕福な家だったという。
小柳は天保5年(1834)、数え18歳で大関阿武松緑之助(当時すでに横綱免許)に入門したのである。
翌6年正月、緑松八十吉のしこ名を名乗りで三段目格として初土俵を踏むも全敗。しかし、次の10月場所幕下十一枚目まで上がり、下の名を「慶治郎」に改名するも、2敗してのち休場してしまう。
この場所、師匠である阿武松が引退し、そのまま年寄初代阿武松となる。翌天保7年2月には、新十両(幕下九枚目)に上がり、「常吉」を名乗った。ここでも1勝4敗1預に終わった。にもかかわらず次場所の番付はまた上がっている。下がる事がないのである。
江戸時代の相撲は勝ち越し、負け越しによって番付の昇降を捉えてはならないと強調してきたが、小柳のケースはその度を超えている。これほどまでに負け越しを続きの力士が、なぜ厚遇、大抜擢されたかは全くの謎である。
おそらくは、そのあまりの大兵肥満ぶりが「将来の大物」と相撲会所(= 協会)の目にも映り、人気もあって興行面からも期待されていた。そして何よりも師匠阿武松の威光がモノを言ったとしか考えられない。