今川義元は馬に乗れなかったのか? “名古屋の前田慶次”の考察
2020年06月06日 公開 2022年06月30日 更新
今川義元が輿に乗っているのは理由がある
ドラマでは、義元は馬に乗らず輿、現世で申す神輿で移動していた。
「武士なのに何で輿?」
「馬乗れないの?」
と考える者も多いと思う。「義元は太っていて馬に乗れなかった」などという理由ではない。
義元は桶狭間の撤退時にも輿に乗っておったそうじゃ。儂は義元は恐らく、ほぼ馬に乗る事は無かったと考える。
何故かと申すと、輿というのは選ばれた人間しか乗れぬものなんじゃ。今でも神輿は祭で神聖な乗り物として利用されるであろう?
今川家は、室町幕府の将軍家とは密接な関係があった。その為、義元は将軍から輿の使用を許可される特別待遇をうけていた。中々許可が得られんことであるが故、権威の象徴である輿に常に乗っておったんじゃ。
今川と織田の屋敷内の違い
猫を抱えて義元が座っていた今川館の床の間と、熱田湊の織田屋敷との違いにも注目してもらいたい。ここから両家の感覚、見ておるものの違いが描かれている。
今川屋敷は“和”で間が作られていた。調度品は豪華絢爛な国内品、模型の船も一部見えたが日本の船と見受けた。
打って変わり、織田屋敷は南蛮渡来品が溢れる間となっておった。調度品は全て異国の製品、絨毯なるものも見受けた。これは当主の考え方の違いが、分かり易く表現されておった。
義元は国内に向いておるが、信長は異国に向いておる、セリフは無くとも重要な場面であった。
それこそ、水野は見たこともない調度品に驚き、織田家への見る目も変わったであろう。
政治とは相手の心を動かしたものが勝つ。応接間の魅せ方は戦をする上で重要な鍵を握るのは今も昔も変わらないのである。
桶狭間はどう描かれるのか?
さぁ、解説は如何であったか?知識を深めれたか?見落としておった所も色々あったのではなかろうか?
今川義元が京へ上洛ではなく、尾張侵攻を目的に桶狭間にて雌雄を決する。これ迄の織田と今川の小競り合いはこの布石であった。
次回は遂に戦国史最大の奇襲戦、桶狭間の戦いが開戦する。注目すべきは兵数2,000名とも3,000名とも言われる織田軍と、大大名今川軍25,000名の戦い。
この戦いを映像で、どう表現するか注目じゃ。数では圧倒的に不利な状況の中、天候を活かし、軍の指揮を高めるべく大将自ら戦場を駆ける織田信長や付き従う家臣達の玉砕覚悟の突撃ぶりをどう描くか。大河ファンは必見であろう。桶狭間の戦い歴史的一幕を刮目せよ!
次回の「麒麟がくる第21回 決戦!桶狭間」、皆で楽しもうぞ。