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生き方

哲人・安岡正篤は“時の指導者”たちに「運命」をどう説いたか?

安岡定子(安岡正篤サロン講師/道徳評論家)

2020年12月10日 公開 2023年01月18日 更新

安岡定子

「運命」とは? 「天命」とは?

自分を尽くすのが立命――。

こうした「命」に対する考え方は、祖父が残した他の著作でも触れられていることなので、ご存じの方もおられるとは思います。続いて、祖父は「運命」というものにどう対峙するべきかを述べています。

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人は外物を知り、外物を活用することも容易でありません。まして尽くすことなどは思いもよりません。自分こそ人間にとって最も不可知であり、取り扱いにくい難物であります。

そこで易者だの相者などにたやすく翻弄されたり、行きあたりばったりに暮らします。命を知らねば君子でないという『論語』の最後に書いてあることは、いかにも厳しい正しい言葉であります。

命を立て得ずとも、せめて命を知らねば立派な人間ではない。水から電気も出る。土から織物も薬品も出る。これ水や土の命を人間が知って、立てたものであります。

自然科学は、この点偉大なる苦心と努力とを積んで参りました。それにしては人間の道の学問、即ち人間の命を知り、命を立つべき学問、自分の命を知り、自分の命を立つべき学問は、何という振わぬことでありましょう。

命とはかくのごとく先天的に賦与されておる性質能力でありますから、あるいは「天命」と謂い、またそれは後天的修養によって、ちょうど科学の進歩が元素の活用もできるように、いかようにも変化せしめられるもの、即ち動きのとれぬものではなくて、動くものであるという意味において「運命」とも申します。運は「めぐる」「うごく」という文字であります。

しかるに、人はこの見易いことを見誤って、命を不運命、宿命、即ち動きのとれない、どうにもならない定めごとのように思いこんで、大道易者などにそれを説明してもらおうとする。それでは天命でも何でもない。

人命にも物命にも劣るものといわねばなりません。人間の天命はそんないい加減なものではなくて、修養次第、徳の修めかた如何で、どうなるか分からないものであります。

自然の物質の性能、応用が科学者の苦心研究によって、はかることができないような神秘を解明いたしますように、人間の性質能力も、学問修養の力でどれほど微妙に発揮されるか分かりません。

決して浅薄な宿命観などに支配されて、自分から限るべきものではありません。
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いかがでしょうか。この講話に目を通すにつれ、「運命」ともいえる出来事――理事長職を務めること――と向き合う現在の私に対して、「まず自分をよく知って、自分らしく頑張りなさいよ」と祖父が励ましてくれているように思えてきました。

おそらく、それぞれの方にそれぞれの境遇があり、祖父の言葉から感得されることはそれぞれに異なるのだと思いますが、祖父の長年の研究に基づくこうした講話が、どなたかのお役に立てるようであればとても嬉しく思います。

 

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