江夏豊「考えて、工夫してもダメなら、もっと考えて工夫する」
2012年02月26日 公開 2022年12月27日 更新
エースはわがままじゃなきゃダメなんだ……。「9連続奪三振」「江夏の21球」。数々の伝説を打ち立て、「20世紀最高の投手の1人」といまだに評される球界のエースが語るプロの自覚とはどのようなものなのか。
栄光と挫折を経験した17年のプロ野球生活、そしてメジャーリーグ挑戦。江夏氏だからこそ語れる工夫と決断力に迫る。
※本稿は、江夏豊著『エースの資格』(PHP新書)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
林さんの指導でピッチングの基本線ができた
プロ1年目の私は、散々に長打を食らっては失敗していました。とくにツーエンドツーもしくはフルカウントになると、インコースを攻めるしかなくなる。それで年間に230イニング投げて27本ものホームランを打たれていた。
極端にいえば、9回に1本、必ず打たれている。もうこんなピッチングはしたくない、そんなピッチャーになりたくない、と思っていて、2年目のキャンプが始まってまもないころのことです。まさに林さん(註:この年入団した阪神タイガースの投手コーチ)から被本塁打の多さを指摘されて、こう言われました。
「ホームランの数をもうちょっと少なくするには、コントロールをよくしなければいけない。そのためにはフォームのバランスだよ。キミの投げ方にはちょっと余分な力が入っているから、力を抜くための練習をやっていこう」
余分な力が入っていた原因の1つは、砲丸投げです。私は中学時代、先輩と喧嘩したことがもとで野球部を辞めてしまって、その後、陸上部に所属して、短距離と砲丸投げの選手になりました。重い砲丸を投げることで地肩が強くなった反面、担いで投げるクセが残って、テークバックのときにいったん後ろに倒れる動きが余分だったんです。
もっとも、林さんもそれを最初からわかって指摘したんじゃなしに、キャンプの第一クールはブルペンで力いっぱい、真っすぐを投げることを優先しました。
そのなかで、「インコースに投げて打たれるのなら、アウトコースにコントロールできるように」という意図があったんでしょう。林さんは私には何も伝えない代わりに、キャッチャーにアウトローに構えさせて、そこに投げる練習ばかりさせた。
アウトローに投げるのは苦手でしたから、投げるたびにシュートしたり、スライドしたり、ワンバウンドになったりする。第二クールまでそんな調子で嫌になりもしましたが、その様子を見た林さんから、「いまのままのフォームではアウトローに投げるのは無理があるんじゃないか」と言われて、砲丸投げのクセという欠点に行き着いたわけです。
それからは、「自然体で投げられるキャッチボールの段階から、真っすぐ立った状態で投げられるように」ということで、キャッチボールに時間をかけました。
さらにはボールを離すときの手首の角度、指先の力の入れ具合と、細かい部分の欠点もチェックされて修正していった。要は、林さんの指導によって投げ方をすべて改良され、徐々にアウトローのコントロールを身につけることができたんです。
身についたのは真っすぐのコントロールだけではありません。1年目は曲がらなかったカーブにしても、その後、林さんからゴムまりをもたされて、一生懸命、スナップを利かせる練習をしたらよくなった。ある程度、曲がるようになって、実戦練習で使ってみると、バッターの人がみんな空振りするんです。フォークのように曲がって落ちたんですね。
こうして私は、フォームのバランスが修正されたことでコントロールという技術を身につけ、アウトローの真っすぐと小さく曲がり落ちるカープという、自分のピッチングの基本線をつくることができた。
ただ、林さんの指導内容そのものはまったく特別なものではなく、すべて基本中の基本です。つまり、私は曲がりなりにもプロのピッチャーでありながら、その基本すら理解していなかったんですよ。
そこで思うのは、もしも林さんが上から押さえつけて、頭ごなしに自分の指導を押しつける人だったら、私は聞く耳をもてなかったかもわからないということ。技術的にも精神的にも未熟だった20歳前の自分に対し、教えるというよりも、つねに諭すようにして、対話そのものが楽しく感じられるほどだったから、素直に課題に取り組んでいけた。
そういう意味で、林さんは私にとってかけがえのない指導者であり、どれだけ感謝の言葉を並べても足りないほどの恩人なのですが、ずっと面倒をみてもらえたかといったら決してそうじゃない。林さんはその年かぎりで退団されたんです。
だからこそプロ野球の世界、自分にとっていい指導者とめぐり会えるかどうかは運でしかないし、私にしてみれば、林さんとの出会いは運命的だったといえます。