現代社会は"ゴム"という素材に支えられていると言っても過言ではない。しかし、ゴムという新素材が実用化されるまでには、多くの困難があった。それでも「ゴムにとり憑かれたような男」が次々と現れ、高い壁を乗り越えていった――。
※本稿は、大宮理著『ケミストリー世界史 その時、化学が時代を変えた!』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものです。
ゴムとの遭遇
17世紀には、地球が球体だということはわかっていましたが、その形に関して、赤道のほうが遠心力で太くなっているとするニュートンと、宇宙空間に渦巻いているエーテル(当時の人びとは、エーテルという物質が宇宙を満たしていると考えていました。これは化学物質のエーテルとは違います)に押されて南北のほうが長くなっているとするデカルトとのあいだで論争がありました。
フランス科学アカデミーは1735年、数学者、測量者のチームを北欧と南米に派遣して、どちらが長いのか測定しようとしました。そのうちの1人、数学者、地理学者、天文学者であるシャルル・マリー・ド・ラ・コンダミーヌは、子午線の長さを測るよう南米に派遣されます。本来の測量を終えた彼は、南米を探検し、さまざまな知見を得ました。
インディオたちがカウチュの木(カウは「木」、チュは「涙」で「涙を流す木」)と呼んでいた木から染み出す白い乳液状の樹液を固め、煙で熱したあとに固めるとボールや容器、長靴などがつくれること、アマゾンの現地人がクラーレという猛毒を塗った矢で動物をとっていること、キナの木の樹皮のキニーネという苦味の成分でマラリアを治せることなど、興奮に満ちた発見でした。
ゴムをヨーロッパに持ち帰る
このカウチュの樹液から得られる白い樹液こそが、天然ゴムの溶液、ラテックス(ラテン語で「液体」という意味)です。現地の人びとは、ラテックスを固めてゴム製品をつくっていたのです。
コンダミーヌはカウチュからつくったボールや白い乳液をサンプルとして持ち帰り、パリにもどりました。しかし、煙で処理をしない生の樹液だったので、白い乳液は船のなかで発酵して腐ってしまいました。
これを契機に、ゴムという物質が本格的に知られるようになりましたが、生ゴムは夏にはベトベトになり、冬には硬化してヒビ割れるので、はじめは使い道がありませんでした。
それまで湿ったパンで鉛筆を消していましたが、1770年、イギリスの化学者ジョゼフ・プリーストリーが偶然、生ゴムで鉛筆の字をこする(=「rub」)と消えることを見つけ、「ラバー」と名づけました。
使い道のない、この新素材のゴムを現代文明を支える物質にまで高めるには、ゴムにとり憑かれた1人の男の登場を待たなくてはなりません。