夏目漱石の「てんまる」
さて、それでは夏目漱石の文章は、どうでしょうか。漱石の文体は、もちろん漢文、英文学などの学問に支えられていますが、子規が教えた俳句、写生文によって才能を大きく躍進させたことはいうまでもありません。
落合直文の『句読法案』が文部大臣官房図書課から出版された明治39(1906)年、漱石は『坊っちゃん』や『草枕』などを発表しています。
はたして漱石の「てんまる」はどのようなものだったのでしょうか。
『坊っちゃん』は、自筆原稿の複製を見ることができます。もちろん、全集で読んでも、漱石の「てんまる」は、間違いなくそのまま反映されています。ただ、自筆本を見ると、「てん」は、原稿用紙マス1つではなく、マスとマスの間の横棒の右端に小さく打ってあります。
また「まる」は、1マスを使って、見やすく「。」が打たれています。
この「てんまる」を気に留めながら声に出して読んでいくと、なんとなく漱石の息遣いのようなものが感じられる気がしてきます。
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親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
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漱石の『坊っちゃん』の文体は言文一致を見事に開花させたものと言えますが、こうした息遣いのようなものが感じられることこそ、漱石の文章の素晴らしさなのかもしれません。
それでは、手紙はどうでしょう。
1通、大正3(1914)年3月13日付、友人・西川一草亭(いっそうてい)に宛てた手紙は、「てんまる」なしの筆で書かれています。
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拝啓先達の朝書画帖が一冊届きました夫から晩方に綺麗な百合の花が届きました花は下さったのだらうと思って翌日花瓶に挿しました珍しいと思って眺めていますが来客は一向気がつかないようです
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書道雑誌『墨』(芸術新聞社 1984年7月号)にはこの手紙について、次のようなコメントがつけられています。
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夏目漱石の書簡は、求心的、禁欲的雰囲気の整斉、端整の整った顔立のものが圧倒的 に多い。ところが、これは珍しく、禁欲を開き、奔放、快闊に書かれている。〈書簡体〉から位置をずらし、〈作品体〉に接近した表現となっている。意図的に〈作品体〉に仕上げたというよりも、書画帖への揮毫シーンが潜在意識野に浮び、自然に〈作品体〉的横すべり現象を示したのであろう
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巻紙の書を見れば、こうした筆使いも感じられますが、漱石全集を見ると、漱石は書簡では、ほとんど「てんまる」を使わずに文章を書いています。
ただ、明治43(1910)年9月11日付、同年10月31日付など、妻の鏡子、また小さな子どもたちに宛てた書簡には、改行が多かったり、「まる」や「てん」がつけられているのです。
10月31日付夏目鏡子宛て書簡を挙げておきましょう。
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きのふ御前から御医者の礼の事に関し不得要領の事を聞かされたので今朝迄不愉快だった。御前も忙しい、阪元も忙しい、池辺も忙しい、渋川は病気だから寝てゐるおれの考通り、着々進行する事は六づかしいが、病人の方から云ふ〈と〉あんな事は万事知らずにゐるか、さうでなければ一日も早く医者にも病人にも其他の関係者にも満足の行く様にはやくてきぱきと片付く方が心持がよろしい。
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大正4(1915)年、漱石は京都に遊び、磯田多佳という芸妓と知り合っています。彼女のところで喀血をし、しばらく養生するのですが、そのお礼の手紙には「てんまる」はありません。
そうであれば、必ずしも、漱石が女性や子どもに宛てた手紙に「てんまる」をつけたということは言えないのですが、妻の鏡子、子どもたちに宛てた手紙に「てんまる」が多用してあるということは、漱石の無意識の中に、なんらかの意図があったということができるのかもしれません。
いずれにせよ漱石は、小説には、厳格に「てんまる」や括弧などを的確に使っているのです。