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生き方

「死ぬかもしれない」不安はいつまでも 消えないのか?

石上智康(いわがみちこう/浄土真宗本願寺派総長)

2022年10月19日 公開

「死ぬかもしれない」不安はいつまでも 消えないのか?

浄土真宗本願寺派の総長として多忙な日々を過ごす石上智康さん。86歳となった今、自身に「若い頃にはなかった変化」が起こったという。

※本稿は月刊誌『PHP』2022年7月号より抜粋・編集したものです。

 

自分と他者を分けて考えることで 対立は生まれる

仏法のものの考え方が今ほど大事で切実な時代はないと思います。正確には、仏教ではありません。英語でブッディズムというと一つの主義主張になってしまいます。

この世の実相、真理、それがインドの言葉でダルマ、法といわれる。それを悟った人がブッダということになります。だからブッダダルマ、仏法です。

コロナはいまだ終息していません。ロシアがウクライナへ軍事侵攻しました。不安のなかにある一人ひとりにとっても、平和で持続可能な世界のためにも、仏法の真理観は大切なものでしょう。

なぜ、争いがおこるのか。自他の対立を越えられないからです。自分がいて相手がいる。そして敵味方、勝った負けた、いい悪い、好きだ嫌いだととらわれる。とらわれが、さまざまな悲喜の原因をつくり悩み苦しみとなるのです。

仏法の悟りは、自他を分けて考える分別がはたらき出す以前の世界に気づいていくことから始まります。日常の思考以前の境地だから難しい。私たちはどうしても執着しますから。仏さまのようにはいかない。でも悟りというのは、どこか別の遠い世界にだけあるのではありません。

すべての現象は、原因やさまざまな条件、縁が互いに関係しあい生起しています。縁(よ)って起きている。「縁起(えんぎ)」しています。すべては縁起しているから「空(くう)」といわれる。

だから固定した実体、すがた・かたちなどは何もありません。縁起している事実のほかに固定した実体はないと説かれています。人間のとらわれが、よし悪しや喜び悲しみなどの世俗的な価値判断が、まぎれ込こむ余地はない。仏さまからご覧になれば、ここは真実があるだけの境地なのです。

 

86歳になって 起こった変化

私は今年で86歳。「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」というお念仏が自然と出るようになってきました。ふとした瞬間とか、お風呂に入りさあ寝ようというときなどにです。若いころにはなかった変化です。お念仏は「我にまかせよ そのまま救うの 弥陀のよび声」と理解されています。

しかし、それが自然と口にのぼるようになったからといって、安心できているわけではありません。心配は絶えない。

親鸞聖人もそうだったようで、『歎異抄(たんにしょう)』の九章には「少しでも病気にかかると死ぬのではないだろうかと心細く思われるのも煩悩のしわざです」とあります。

死にたくないとこの世にしがみついているから、なかなか安心がいただけない。すべてのことが縁起している世界の中で、縁起する命を生きているにもかかわらず、勝手に「自分の命」と思い込んでいるから、安心できないのでしょう。

聖人はつづけて「どれほど名残り惜しいと思ってもこの世の縁がつき、どうすることもできないで命を終えるとき、かの土に往生させていただくのです」と仰せになっています。「かの土」とは「自然の浄土(じねんのじょうど)」のことです。

聖人のお手紙には「無上仏(むじょうぶつ)、この上ない仏とは、かたちを超えたこの上ない悟りそのものをいうのです。かたちを離れているから、自然というのです」とあります。

人は、この世の縁が尽き力なくして終わるとき、とらわれもなく何もなく、縁起するままに、みな「自然の浄土」に迎え取られていくのです。自然は安心できるとかできないという、何事にもとらわれてしまう人間の分別の世界を超えています。

「精いっぱい いつもおまかせ このまんま」。これが今の私の心境です。

 

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