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生き方

心理学者が明かす「名誉ばかり追い求める人」ほど成功が遠ざかるワケ

榎本博明(心理学博士)

2022年11月16日 公開

 

成功することの本当の意味

困難な課題に必死に取り組んでいる姿は美しい。そのただなかにあるときは、逃げ出したくなるほど苦しくとも、あとで思い返せば当時の張りのある毎日が懐しく感じられるものだ。

障害を克服しつつ目標に向かって物事を成し遂げていきたいという欲求を達成欲求と言う。人により強弱こそあれ、だれもが生まれながらにして持つ欲求だ。

これがあるからこそ人間の成長があるとも言える。この世に生まれたからには、何か成し遂げてみたい。こんな思いにかられるのも、達成欲求のゆえだ。

ところで、世間には人々の心に潜む達成欲求を変に刺激する風潮がある。「こうすればあなたも必ず成功する」式の雑誌記事のいかに多いことか。

このような発想にとらわれた者は、絶えず走り続けなければならない。懸命に努力を続け、業績をあげ、仕事上の成功を獲得する。それはすばらしいことに違いない。

物事に全力でぶつかるのはよいのだが、問題となるのは、何かを成し遂げることによって得られるかもしれない社会的成功を、唯一の目標のごとく思いこまされることだ。

昇進や賞の獲得など社会的地位の上昇や収入の増加を成功と考えると、プロセスの充実度ではなく、結果に対する他人の評価が決め手となる。

当然のことながら、どうしたら他人が自分を高く評価してくれるかという発想に染まり、あげくはより高い評価を得るための見せかけのテクニックに凝ることになる。そうしているうちに、全力を尽くして張りのある生活を送るという本来の成功の姿を忘れてしまう。

さらに、名誉や金銭など外から報酬を受けとることを成功と考える限り、地位が上り続け収入が増え続けなければ成功者となれない。たまたま成功したとしても、次にはより大きな報酬に結びつくことをしないと成功はない。

結局、結果のみにとらわれ、ひたすら成功を求めて馬車馬のごとく走り続けなければならず、目標に向けて全力を尽くすなかで得られるはずの充実感を味わうゆとりなどない。

どんな仕事でも、真剣に取り組むことで充実し、喜びを感じられるはずなのに、結果としての成功を求めることにより、かえって成功は遠のいていく。

自分を正当に評価してくれないと上司や会社をうらむという発想は、不幸にしか結びつかない。思いきり何かに取り組んで充実した時間を過ごすという機会を与えてくれるのが会社だと思えばよい。充実の場を与えてくれて、なおかつ給料までくれるのだからありがたいものだ。

社会的地位や収入が上昇し続けることを成功とする発想は捨てたほうがよい。仕事で充実してしまった者が成功者なのだ。

全力を尽くし、張りのある時間を生き、ふっと我に返って「自分はがんばってるなあ」と思えるとき、成功の2文字が手中にあると言えないだろうか。

 

会社の評価が人生の全てではない

企業にとって有用な人材を育成する機関としての近代の学校教育の場では、好きな勉強を思いきりやりたいというタイプやじっくり考えるタイプは落ちこぼれとみなされる。与えられた知識を能率よく仕入れていく者が優秀とされる。

アインシュタインやエジソンのように、落ちこぼれることで創造的思考を育てる者もあろうが、多くはそのシステムに組みこまれ、型にはめられていく。

アルヴィン・トフラーは、『第三の波』のなかで、産業革命以後の大衆教育の隠された目的として、時間厳守や絶対服従の姿勢を身につけさせ、機械的な反復作業への抵抗をなくさせることがあったとしているが、現代の学校教育や受験のシステムを見ても、組織のなかに抵抗なく組み込まれる人材を育てている側面が残っているのは明らかだろう。

学校を出て就職すれば、当然、組織の一員としての機能を果たさなければならない。どうせ働くなら有能なビジネスマンでありたい。しかし、組織のペースに完全に巻きこまれると、便利な人材として型通りの大量生産品のひとつにされてしまう恐れがある。

近頃、規律正しい生活に不慣れな若者が増えているということで、上役には絶対服従の模範的組織人の精神をたたきこむために、新入社員を自衛隊に体験入隊させる会社があると聞く。

常識レベルの礼儀作法さえ身についていない若者が少なくないのはたしかだが、ちょっと恐ろしい気がする。上役の期待通りに与えられた役割を忠実にこなし、企業のために役立つ能力の開発に余念のないバリバリのビジネスマンは、企業社会にはなくてはならない存在なのだろう。

だが、ある意味では、組織の都合で走らされているにすぎない。いや、はじめのうちはそうかもしれないが、出世すれば組織を動かす側になれる、と反論する者もあろう。

しかし、はたしてそんなに自由な立場になれるだろうか。組織の維持・発展のために必死に知恵を絞っている経営者や重役など、組織を思いきり切り回しているという点でカッコイイかもしれない。個々の組織のなかで見れば、そういえる面もあろう。

だが、より大きな視点から見れば、社会の流れに流されているにすぎない。自分のなかの、組織から高く評価される能力ばかりを発達させていくと、みな無個性の有能なロボットと化すだけだ。組織というのは、個々の歯車がしっかりかみ合わないとうまく機能しない。

したがって、組織に属するからには、他とうまく連動できる規格に合った歯車にならぎるをえない。だからこそ、そうした自分が全てであるかのような生活に陥らないよう気をつけるべきなのではないか。

組織にとっての有能な人材となることばかりにとらわれず、せめてプライベート・タイムには、同じちっぽけな歯車でも独自な形にふくらんでみたいものだ。

 

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