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生き方

同じ出来事でも「苦しむ人」と「苦しまない人」がいるのはなぜ? 脳が作る物語の正体

鈴木祐(サイエンスジャーナリスト)

2026年09月10日 公開

嫌なことがあったときに自分だけ落ち込んでいるけれど、友人は全く気にした素振りを見せていない――そうした状況になると、「私はメンタルが弱いのかな...」とさらに落ち込んでしまいがちですが、サイエンスジャーナリストの鈴木祐さんは「メンタルの強さのせいではない」といいます。

では、なぜ同じ出来事が起きても苦しむ人・苦しまない人がいるのか。本稿では、脳の性質について紹介します。

※本稿は、鈴木祐著『最高の状態 無』(クロスメディア・パブリッシング)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

ヒトの脳は0.1秒でストーリーを生み出す

「ヒトの脳は物語の製造機である」

こんな見解を、神経科学の分野でよく耳にするようになりました。旧来の発想とは異なり、私たちの脳は物語を生み出すために生まれた器官だという考え方です。昔ながらの見解では、私たちは3つのステップで"世界"を体験すると考えられてきました。

①周囲の映像や音声を目や耳などの感覚器官が受け取る

②インプットされた情報が脳の高次エリアに届けられる

③すべての情報を脳が処理したあとで、最終的な判断を行う

たとえば、あなたがリンゴを目にする場合、まずその映像を眼球がカメラのように撮影します。この画像が脳の高次機能に送られ、そこで初めて「リンゴ」の映像として処理されると考えられていました。

ところが、後の研究により、この発想では説明できない現象が多いことがわかってきました。代表的なのはテニス選手のケースです。一般的なプロのサーブ速度は平均で時速190キロを超え、トップクラスともなれば時速200キロを記録することもあります。

ここで問題なのが、人間の脳が目で見たものを処理するには思ったよりも長い時間が必要であるという点です。複数の実験によれば、目から入った光が網膜で電気信号に変わり、脳内でイメージに構成されるまでにかかる時間は約0.1秒。どんなに動体視力が良くてもこの数値は変わりません。0.1秒という時間をテニスで考えると、「相手がサーブを打った」とプレーヤーが認識した時点で、ボールはすでに5メートル近く進んだ計算になります。

視覚処理と現実の時間にこれほどズレがあるにもかかわらず、プロプレーヤーが高速サーブを打ち返せるのはなぜでしょうか?この疑問を解くために生まれたのが、「脳=物語の製造機」というアイデアです。この考え方においては、私たちは次の3ステップで"現実"を体験することになります。

①周囲の状況がどう展開するか、脳が事前に物語を作る

②感覚器官が受け取った情報を脳の物語と比べる

③脳の物語が間違っていたところのみ修正し、"現実"を作る

テニスの例で言えば、相手がボールをトスアップした瞬間から、脳は次々に物語を作り始めます。過去に相手が打ったサーブと同じスピードの球が来る、ボールの上昇スピードがいつもより速いので相手はミスをする、手首が右向きなのでボールはコートの右隅に届く――。こういった物語をもとに、脳は事前に"現実"をシミュレートし、プレーヤーはその予測にもとづいて実際のボールより速く身体を動かすことができます。この能力がなければ、私たちは向かってくるボールや車を避けられず、安心して表を歩くこともできません。

このような思考を"物語"と呼ぶことに、違和感を抱く人もいるでしょう。そもそも"物語"と呼ばれるものには、「特定の物事の因果関係を説明したもの」という共通点があります。その点で、「相手選手のトスアップから生まれた無数の予測」もまた、物語の原初形態と言えます。

 

私たちは脳が作ったシミュレーション世界を生きている

人間の脳が物語の製造機になったのは、日常の活動に使うリソースを節約するためです。

たとえば、原始時代の祖先たちが猛獣に襲われるような場面では、本当に必要なのは「猛獣の動き」に関する判断材料のみでした。それ以外の「いつものサバンナの光景」や「遠くに見える鳥の動き」といったデータは無視して、猛獣の挙動だけを処理しなければ、素早く反応できません。

これは現代の私たちも同様です。日々の細かな感覚情報をすべて処理していては、脳のキャパシティがいくらあっても足りません。つまり人類は、高度なストーリーテリング能力のおかげで、多くの危機を乗り越えて現代まで進化できたのです。

さらに、近年の神経科学の進展のおかげで、脳が瞬時に物語を作り上げるメカニズムもわかってきました。

たとえば、あなたが出勤のため玄関のドアノブに手をかけたとしましょう。この瞬間、脳の島皮質という高次領域が「扉の向こうにはいつもの景色があるだろう」「ドアは普段どおりに開き、私は駅に向かうだろう」などの物語を無数に作り出します。

このデータはいったん目と目の間に位置する視床という場所へ転送されます。続いて実際にドアを開くと、目や耳から入った情報が視床に送られ、ここで物語データとの比較が行われます。現実世界から得られた情報と、脳が作った物語を照らし合わせ、間違いがないかをチェックするためです。

もし物語が現実の情報と同じなら、あなたの脳は外界から取り込んだ情報を使わず、最初に高次領域が生んだ物語をそのまま採用します。つまり、目や耳から入ったデータはほとんど使われず、脳が作った「扉を開いても普段どおりの日常が続く」というシミュレーションを、あなたは"現実"として体験するのです。

一方で、「扉を開けたら巨大な犬がいた」というように、脳が作った物語とは異なる現実が広がっていた場合は、間違った情報だけが高次領域に送り返されます。つまり、このケースでは「巨大な犬」のデータのみが高次領域にフィードバックされ、この情報をもとに脳は「この犬は危険だ」「こちらに向かってくるかもしれない」といった新しい物語を展開します。そして、以降も新たな物語が延々と連鎖し続けます。

以上のことをもとに、現代の神経科学者や心理学者は、私たちが知覚する"現実"の大半は、脳が生んだ物語で構成された"世界のシミュレーション"であるとみなしています。あなたがどれだけ世界をリアルに感じたとしても、その"現実"の構築に使われた外界のデータは、ごくわずかなのです。

古代ギリシアの哲学者プラトンは、「人の目に映る現実の世界は真実の影に過ぎない」と述べました。彼が言うように、私たちは決して現実をありのままに体験しているわけではありません。VRゴーグルさながらに、脳が作り出したシミュレーション世界を生き続けているのです。

 

苦しむかどうかはメンタルの強さによらない

脳のストーリーテリング機能がやっかいなのは、私たちの生存を守ると同時に、トラブルを引き起こすことも多いからです。

たとえば、初対面の人と会ったとき、脳はすぐに過去の記憶を引き出し、「母親に似ているから良い人だろう」というような判断を1000分の1秒で下します。判断材料に使われるのは、子どものころから吸収してきたすべての体験です。

「初めて会う人には挨拶をするものだ」「赤信号では止まらなければならない」「お金はレジで払うものだ」......。

過去に得た知識と情報は、脳内に個別の物語として蓄積され、その一部は、あなたの行動を導く"法律"のような働きをします。いわば特定の物語が強制力を持った状態です。周囲の状況が変わるたびに、私たちの脳は複数のストーリーから適した物語を選び、その内容に沿って次の行動を決めます。

もしこの機能がなければ、初対面の人と会うたびに「この人には挨拶をすべきか?」などと考えねばなりませんし、信号を見るたびに「赤信号は渡るべきかどうか?」と迷ってしまいます。

脳内の物語機能を40年にわたって研究してきたハーバード大学のクリス・アージリスも、「人は常に自分が口で言うことに準じて行動するわけではなく、自分が採用した物語の通りに行動する」と述べています。私たちが日常をスムーズに過ごせるのは、脳に備わった物語サーチエンジンのおかげです。

しかし、ここで問題があります。「食べ物を粗末にしない」といった物語なら特に害はありませんが、ときに私たちは「肥満は怠け者の証拠だ」などの歪んだ内容を行動の規範として採用することがあります。これらの物語のままに動けば、トラブルになりかねません。

さらに、歪んだ物語は自分自身にも害を与えます。

たとえば、友人が急にそっけない態度をとってきたとしましょう。このとき、脳はすぐに現状を説明してくれる物語を探し始めます。その結果、「忙しい人は態度が冷たくなりやすいものだ」という無難な物語がピックアップされれば、日を改めて連絡しようと思うだけで済みます。

しかし、ここで脳が「私は愛されない人間だからだ」という歪んだ物語を取り出せば、話は別です。あなたの中には「嫌われたのではないか」「何か悪いことをしたのでは」などの思いが浮かび、いつまでも頭をめぐり続けます。

つまり、同じようなトラブルでも、苦しむ人と苦しまない人がいるのは、メンタルの強さによるものではありません。脳内に作られた独自の"ストーリーライン"の問題なのです。

著者紹介

鈴木祐(すずき・ゆう)

サイエンスジャーナリスト

1976年生まれ。慶應義塾大学SFC卒業後、出版社勤務を経て独立。10万本の科学論文の読破と600人を超える海外の学者や専門家へのインタビューを重ねながら、へルスケア、生産性向上をテーマに書籍や雑誌で執筆。自身のブログ「パレオな男」で心理、健康、化学に関する最新の知見を紹介し続け、月間250万PVを達成。著書に『ヤバい集中力』他多数。

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