スティーブ・ジョブズのいう「バカ」の意味
2012年01月27日 公開 2021年08月04日 更新
ジョブズのいう「バカ」の意味
さらにいえば、「突き抜ける人材」になるには、「バカ」であることも大事です。ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で語った有名な言葉、“Stayhungry,Stayfoolish(ハングリーであれ、バカであれ)”の意味を、日本人はもっと深く考える必要があります。
新しいことをしようとする人に対し、冷笑的な態度や皮肉な態度を取っては決してならない。洋の東西を問わず、「バカ」という言葉には、2つの意味があります。
「物事を知らない」「愚かである」という意味の「バカ」と、「既存の観念にとらわれない」「リスクがあっても挑戦する」「空気を読まず、自分の信念に従う」といった意味の「バカ」です。両者が同じ「バカ」という単語で記述されることに、大きな問題がある気がします。
たとえば東大法学部の人たちは、当然自分たちを「賢い」と思っています。文系の中で自分たちが一番だと思っていて、実際、入学試験の学力で見ればそのとおりでしょう。しかし、日本の大学入試の点数だけが、人間の能力を測るものさしであるわけではもちろんない。
アメリカのカリフォルニアでイノベーション(新機軸、変革)を打ち出している人たちは、学力や偏差値が低いことを、必ずしも劣っているとは考えません。ある意味、「バカ」かもしれないけれど、一味違った「バカ」と思われる人たちがいて、社会的評価も受けている。
その「バカ」がどういうことを指すのか、日本人はもっと理解しなければならない。日本の東大法学部の人たちは、ジョブズのような枠にはまらないタイプの人間も、「バカ」と評価して見下しますが、アメリカではそういう人がヒーローにもなるのです。
ベルリンで国際的なキュレーター(学芸員)として活躍している日本人の知り合いがいますが、彼も高校のときの偏差値は40だったそうです。入試の学力で見れば「バカ」でしょうが、彼の場合、興味あること以外、勉強する気がなかったので、偏差値が低くなってしまったようです。
これもまたジョブズのいう「バカ」でしょう。こういう「バカ」は、大いに奨励されるべきです。イギリスにも日本と似たところがあり、安定した社会でポジション争いをしているような集団では、日本型の賢さが奨励されがちです。
イギリスもアメリカに比べると、社会にダイナミズムがありませんから、その中で相対的な優位を確認できることが重要なのでしょう。しかしアメリカのようにイノベーションがどんどん起こることを前提にした社会だと、そのようなポジションを持つことに、意味がないのだと思います。
権威に盲従しない「超人」を目指す
これからの若者が吟味すべきだと思うのが、ニーチェの「超人」という概念です。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』に出てくるものですが、超人的な能力を持つ天才が万能の活躍をするという話ではありません。
『ツァラトゥストラはかく語りき』は、長年、山にこもっていたツァラトゥストラが山を下りるとき、途中で出会った男が「神は死んだ」というところから始まります。ここでいう「超人」とは自分の外に自分を支配したり、命令したり、自分を価値づける権威を置かない人のことです。
この「権威」のことをニーチェは、当時のヨーロッパのキリスト教を基本とする伝統文化の中で「神」と呼んだのですが、いまの日本でいえば「大学」「偏差値」「新卒一括採用」などがそうでしょう。
そうした“神”に盲従している人たちが、日本にはたくさんいます。これらの権威が「死んだ」と気づき、あとは自分の才覚で選択して行動し、結果も自分で引き受ける。そのためには自己鍛練が必要で、それができた人が、ニーチェがいうところの「超人」なのです。
たとえばジョブズは一時期アップルを追い出されますが、このときピクサーというアニメーション制作会社を設立します。それまでとはまったく違う分野の会社を始めたわけで、ある意味、過去の否定から入ったのです。
その後、アップルに戻ってから開発したiPhoneやiPadも、それまでのコンピュータの否定といえます。iPadが登場した瞬間、従来のマッキントッシュをはじめ、キーボードのついたコンピュータは突然古いものになりました。このように、過去の成功体験ですらも否定するのが「超人」の態度だと思うのです。
このような感覚こそ若者は持つべきで、「東大に入ったからすごい」「マッキンゼーに入ったからすごい」といった価値観とは決別する必要があります。