「...なしでは生きられない」は思い込み
人にはよくそれなしに生きてはいけないと思っているものがある。しかし考えてほしい。本当にそれなしには生きてはいけないのだろうか。単に自分がそう思い込んでいるだけのことではないか。
そしてそのような考え方、思い込みの底に罪悪感はないだろうか。それなしで生きることが罪であるという意識である。つまり間違って形成された強固な超自我である。
たとえば、私は小さい頃からこの世で何よりも素晴らしいところは家庭であると思い込まされて生きていた。家庭を大切にしないで生きることは最大の罪であった。
道徳の根源は家庭であり、すべての正当性は家庭から生まれた。家庭は生きるすべての意味の根源であった。家庭を否定することは神を否定することであった。
このように思い込んで生きていると、家庭と関係ないところで生きることを楽しむ時に、ものすごい罪の意識が生まれる。家庭がすべてであると思い込んでいると、家庭と関係なく生きることはできないように思い込む。
よくあなたなしでは生きられないというようなことを恋人同士が言うことがある。2人は別に嘘をついているわけではない。たしかにそのようなことはある。しかしそういう背景の一つに、人生は恋なしには無意味であるという考え方があるかもしれない。
それなしに生きられないと思い込んでいるものでも、案外生きてみれば生きられてしまうかもしれない。
親から自立する時にやはり子どもは罪悪感に苦しむ。親なしに生きることができないと思い込む背後にあるものは、親への依存心であろう。そしてその依存心から、親から自立して生きることへの罪悪感も生まれるのではなかろうか。
その結果、依存心を正当化するものとして、時に親孝行というような倫理が唱えられるし、それを破ると罪悪感が生じる。
同じように、何か人がそれなしには生きていかれないと思う時は、依存心と罪悪感がそこにある。依存心というのはいろいろな形で人間を縛る。意外なところで人が豊かに生きることを妨害しているのだ。
依存心が羞恥の基礎にもあるかもしれないし、またそれゆえに拒絶する恐怖も生じる。前にも述べたように、恥ずかしがりやの人は人から拒絶されることを恐れる、とジンバルドーは言う。そしてそれゆえに人と接することができない。それゆえに人に対して心を開いていくことができない。
実際の自分を表現する恐れの背後にあるものをつかむことなしに、他者との心のふれ合いは持てない。
依存心が強いと相手に甘えるか、逆に防衛的になり、自分ではないよい子を演じるかのどちらかになるのである。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。