写真:津田聡
解剖学者の養老孟司さんは、若い頃は勉強すればなんでも「わかる」と思っていたけれど、80代半ばを超えて「わかろうわかろうとしながら、結局はわからなかった」と人生を振り返ります。
考えても答えは出ません。それでも考え続ける養老先生にとっての「わかる」ということ、養老流ものの見方、考え方とはどのようなものなのでしょう。
本稿では、養老先生が考える「情報社会」について紹介します。言葉が溢れる情報社会で生きる現代人は、日々現実、そして自分自身も変化しているという事実を認識しづらくなっていると語ります。
※本稿は、養老孟司著『ものがわかるということ』(祥伝社)より、一部抜粋・編集したものです。
現実も人間も変わり続けている
心の理論が示すように、人間の脳は、できるだけ多くの人に共通の了解事項を広げていくように発展してきました。人間の脳は、個人間の差異を無視して、同じにしよう、同じにしようとする性質をもっています。
だから、言語から抽出された論理は、圧倒的な説得性をもちます。論理に反することを、脳はなかなか受け付けないのです。
私たちは生まれたときから、言葉に囲まれて育ちます。生まれたときには、すでに言葉がある。だから言葉を覚えていくということは、周りにある言葉に脳を適応させていくことにほかなりません。
言葉は自分の外側にあるものです。私が死んでも言葉がなくなるわけではありません。脳が演算装置だとすると、言葉は外部メモリ、つまり記憶装置です。そこには文字によって膨大な記憶が蓄えられています。
言葉だけではありません。言葉よりもう少し広い概念が「記号」です。絵画や映像、音楽は言葉ではありませんが、人に何かを伝える記号です。
記号の特徴は、不変性をもっていることです。だから違うものを「同じ」にできる。「黄色」という言葉は私が死のうが残り続けます。
でも、現実は変わり続けています。こんなことは昔の人はよく知っていました。
「諸行無常」も「万物は流転する」も、変わり続ける現実を言い表した言葉です。しかしいまや、記号が幅を利かせる世界になりました。記号が支配する社会のことを「情報社会」と言います。記号や情報は動きや変化を止めるのが得意中の得意です。
現実は千変万化して、私たち自身も同じ状態を二度と繰り返さない存在なのに、情報が優先する社会では、不変である記号のほうがリアリティをもち、絶えず変化していく私たちのほうがリアリティを失っていくという現象が起こります。
そのことを指して私が創った言葉が「脳化社会」という言葉です。
情報や記号で埋め尽くされた社会
情報社会と言うと、絶えず情報が新しくなっていく、変化の激しい社会をイメージする人が多いかもしれません。しかし、私の捉え方はまったく逆です。情報は動かないけれど、人間は変化する。これを理解するために、私がよくもち出すのがビデオ映画の例です。
たとえば同じビデオ映画を、2日間で10回見ることを強制されたとしましょう。一種類の映画を2日間にわたって、1日5回、続けて10回見る。そうすると、どんなことが起こるでしょうか。
1回目では画面はどんどん変わって、音楽もドラマティックに流れていく。映像は動いていると思うでしょう。2回目、3回目あたりは、一度目で見逃した、新しい発見がいろいろあるかもしれません。そして「もっと、こういうふうにしたら」と、見方も玄人っぽくなってきます。
しかし4回目、5回目になると、だんだん退屈になるシーンが増えてくる。6、7回目ではもう見続けるのが耐えがたい。「なぜ同じものを何度も見なきゃいけないんだ」と、怒る人も出てくるでしょう。
ここに至ってわかるはずです。映画はまったく変わらない。1回目から7回目まで、ずっと同じです。では、何が変わったのか。見ている本人です。人間は1回目、2回目から7回目まで、同じ状態で見ることはできません。
ここまで書けば、もうおわかりでしょう。情報と現実の人間との根本的な違いは、情報はいっさい変わらないけれど、人間はどんどん変わっていくということです。
しかし、人間がそうやって毎日、毎日変わっていくことに対して、現代人はあまり実感がもてません。今日は昨日の続きで、明日は今日の続きだと思っている。そういう感覚がどんどん強くなってくるのが、いわゆる情報社会なのです。
どうしてか。現代社会は、「a=b」という「同じ」が世界を埋め尽くしている社会だからです。記号や情報は作った瞬間に止まってしまうのです。
テレビだろうが動画だろうが、映された時点で変わらないものになる。それを見ている人間は、本当は変わり続けています。でも、「自分が変わっていくという実感」をなかなかもつことができない。それは、私たちを取り囲む事物が、情報や記号で埋め尽くされているからです。
困ったことに、情報や記号は一見動いているように見えて、実際は動いていない。だから余計に、人間は自分の変化を感じ取りにくくなるのです。