白隠 「ありのままの自分」は怠け者の言い訳
山里で使う白木の椀のように、漆をつけなければそもそも剥げることはないと言って、ただ目を閉じて頭を垂れ、眠るような座禅をして妄念をなくそうとする人がいます。
もとが愚鈍でどうしようもない人間なのだから、そんなことをしても死ぬまで悟りを得ることなどできません。
ありのままの自分を認めてほしい、愛してほしい。そう願う人は少なくないでしょう。
しかし、「ありのまま」とは一体何なのでしょうか。
飾らないこと? 素のままを見せること? 心の赴くままに振舞うこと?
いずれにせよ、「ありのまま」をやたらとありがたがる人の中では、ありのまま=ピュアという等式が成り立っているようです。
しかし、白隠は、「白木の器も最初から漆を塗らなければ剥げて汚くなることもないなどという小理屈をこねて、ありのままが一番などとうそぶくのは愚か者のすることだ」と断言します。
白隠は禅宗の僧侶でしたが、江戸時代の禅僧にもいろいろな人間がいました。あらゆる儀式を虚飾だとして無視する者、心のままに生きるのが修行だとして、得意げに破戒する者。
そんな彼らを、白隠はこの文章で一喝したのです。
そもそも、ありのままの自分がすばらしい、何もしないでも悟りを開けるほどの能力がある、人から認めてもらえる、とは随分と思い上がった考え方です。
確かに、世の中には飾り気のなさを称えられる人もいます。しかし、彼らとて、生まれつきそうだったわけではありません。
すべては訓練の賜物です。
人間離れした美しさで知られる現代の名女形・坂東玉三郎を育てた養父の守田勘弥は、よくこう言っていたそうです。
「型破りってえのは型を持っている人間の言うことなんだ。形も何もないヤツラがやれば、いいかい、それは形なしって言うんだよ」
茶室に飾る茶花も、一見ただポンと投げ入れているだけのように見えて、実は花が最も美しく、かつ自然に見えるよう、細心の注意を払って活けられます。
ありのままですばらしく見えるようになるためには、大変な美意識と訓練が不可欠です。
それを理解せず「ありのままの自分」を主張するのは、ただの怠け者の言い訳に聞こえるのですが、いかがでしょうか。