1. 心的エネルギーは対立から生まれる
ユングの考えでは、心的エネルギーは対立するもの同士のぶつかり合いから生まれる。これはユング心理学の根幹を成す最重要の見方である。
ユングは、物理的なエネルギーには必ず相反するエネルギー(対立するもの)があることに注目した。例えば、高温に対する低温、安定に対する不安定、秩序に対する無秩序(乱雑さ)、といった具合である。このことから、ユングは心的エネルギーも同様であると考えた。
ユングによれば、私たちの欲求や情動に対して、対立や矛盾している欲求や感情が無意識内に必ず布置される。
例えば、白という色を考えるとき、もし色が白しかなければどのような色なのかよくわからないが、黒という色があれば黒との比較において白がどのような色であるかがわかる。対立するものは、このような関係性にある。
つまり、対立するものは対の関係にあり、お互いがお互いを規定している。2つで1つのような関係であるため、一方が意識で優勢になれば、もう一方が無意識で優勢となる。
ユングは、この対立するもの同士がぶつかり合うことで心的エネルギーが生み出されると考えた。それは、例えば乾電池にプラス極とマイナス極があって、この2つの極の間を電流が流れることで物を動かすエネルギー(電気)が生じるのと同じことだ。
2つのものの対立の度合いが強ければ強いほど、生じる心的エネルギーも大きくなる。
このことは、2つのものの間の距離と考えるとわかりやすいかもしれない。物を落とすとき、低い位置よりも高い位置から落とすほうが生じるエネルギーが大きくなるように、2つのものの間の距離が開けば開くほど、生じる心的エネルギーも大きくなる。
それは同時に、一方が無意識に強く抑圧されていき、意識化されにくくなるということでもある。だから、賢い人が自分の持つ愚かさを認識できていなかったり、強い人が自分の持つ弱さを認められなかったりするようなことが起こる。
このような意識されていない対立物が統合されないまま無意識に留まると、心的エネルギーの流れに偏りが生じ、いずれ症状を含めたさまざまな問題を引き起こすことになる。
ユングは、例として、定年退職後にユングの個人分析を受けることになったあるアメリカ人の男性クライエントを挙げている。
この男性は現役時代、仕事中心の生活を送っていて、仕事以外のことに関心がなかった。しかし、退職して仕事から離れると、不安と心気症(明らかな身体疾患がないにもかかわらず、ささいな身体的不調にこだわり、それを重病の兆候ととらえたり、もしくはすでに重い病にかかっているという強い思い込みが継続すること)を発症した。
おそらくこの人は、現役時代は自信にあふれ、ビジネスで成功した人物だったのだろう。しかし、その自信や成功は、彼から長きにわたり、自分の中にある不安と向き合う機会を奪ってきたに違いない。
このアメリカ人の男性クライエントの意識はほとんど仕事で占められていたので、定年退職して仕事がなくなったとたん、それまで仕事のみに流れていた心的エネルギーが、無意識に対置されていた不安に流れ込んだのだろう。これにより、彼は不安と心気症を発症したと理解することができる。
福岡伸一さんは著書『新版 動的平衡』の中で、生命の単位である細胞は、絶えず合成と分解、酸化と還元、結合と切断、生成と消失を繰り返して流れゆく動的な存在であると指摘している。
そしてこれをふまえ、生命とは、生じる変化(酸化、変性、老廃物)を絶えず排除するために自らを分解しつつ、同時に再構築を行うという、絶え間ない分解と合成の動的平衡の上に成り立っていると述べている。
分解が少しだけ合成を上回っているところで平衡が保たれ、分解のスピードに合成のスピードが追いつかなくなるとき、生命は終わりを迎えることになる(福岡、2017, p284-312)。
動的平衡が教えてくれるのは、人間を含めた地球上の生命の根幹に対立する力の働きがあるということだ。言い換えれば、生きるということは、対立するものが生み出す動きの上に成り立っている。
対立するものが生命活動を支えるエネルギーである心的エネルギーを生み出すというユングの考えは、物理学だけでなく、生物学に照らしても、妥当性を持つように思われる。
2. 心的エネルギーは対立するものに等しく流れる
ユングは、意識の部分に起こる意思や情動などに対して、必ずそれに相反したり、矛盾したりするものが無意識に生じ、その2つのものの対立から心的エネルギーが生じると考えた。そして、生じた心的エネルギーは対立するものに等しく流れるととらえていた。
だから、意識の態度と反するものを無意識に置いたままにせず、きちんと意識することができれば、心的エネルギーはこころを耕し、豊かにしていく方向に使われていくことになる。
しかし、意識の態度に反するものが意識から排除され、無意識に留まったままだと、そちらに流れた心的エネルギーはコンプレックスに注がれていくことになる。
あまりに長い間この状況が続くとコンプレックスは強大になり、その人にさまざまな影響を及ぼすようになっていく。
先ほどのアメリカ人の男性クライエントの例でいえば、この男性は現役の時、ビジネスで成功したいという欲求を持ち、それを満たすべく心的エネルギーが流れていたと考えられる。
そして、それと同じだけの量が無意識に対置された不安にも流れていた。この人がもし、自分の不安を意識できていたとしたら、定年退職してから不安と心気症に襲われることはなかったかもしれない。
症状とは、ある意味で人格が乗っ取られることでもあるので、この男性は長年不安を無意識に放置したことでコンプレックス化してしまい、後年不安に人格が乗っ取られてしまったとも考えられる。
3. 心的エネルギーは平衡を保とうとする
ユングは、心的エネルギーが物理学の一分野である熱力学の第二法則であるエントロピー増大の法則に従っていると考えていた。エントロピー増大の法則は、簡単にいうと「物事は無秩序・不安定・複雑さが増える方向にしか進まず、自然に元に戻ることはない」ということである。
よく例に出されるのは、コーヒーとミルクだ。コーヒーにミルクを入れると、自然と広がっていく。放っておいても、コーヒーとミルクは自然に混じり合う。
この時、コーヒーとミルクが十分に混じり合っていない状態を「エントロピーが小さい」といい、十分に混じり合った状態を「エントロピーが大きい」という。「エントロピーが小さい」と秩序があり、「エントロピーが大きい」と無秩序になる。
つまり、コーヒーとミルクが混じり合っていない状態のほうが混じり合っている状態よりも「秩序がある」ということになる。
これは、感覚的には逆に思えるかもしれない。一般的には、コーヒーとミルクが均一に混じり合った状態のほうが「秩序がある」ように感じられるのではないだろうか。
けれども、エントロピーの考え方では、コーヒーはコーヒー、ミルクはミルクで分かれているほうが秩序が保たれていて、コーヒーの粒子とミルクの粒子が自由に動き回って、次第に均一に広がっていくことのほうが無秩序なのである。
これは言い換えれば、物事は放っておくと次第に平均化されていく(=エントロピーが増大する)ということを意味している。だから、コーヒーに入れたミルクは自然に均一に広がっていき、コーヒーとミルクの混じり合いは平均化されていく。
ユングは、心的エネルギーも平均化していく傾向があると考えた。
ユングは、物理学だけでなく古代ギリシアの自然哲学者ヘラクレイトスに由来するエナンティオドロミア(enantiodromia)すなわち「物事はいずれ反対方向へ向かう」という概念にも依拠し、心的エネルギーは、たとえ偏った方向に流れていても、いずれ反対方向に向かって流れてバランスを取る作用があると提唱している。
再びユングのクライエントだったアメリカ人男性クライエントの例に立ち返ろう。
この男性の心的エネルギーは、成功するという欲求に偏って流れていた。対置する無意識の不安にも同じように心的エネルギーは分配されていたのに、意識されることがなかったために無意識に留まっていた。
男性が仕事をしているうちはそれでも回っていたのだと思うが、仕事を退職すると、意識に偏って流れていた心的エネルギーが「エントロピー増大の法則」あるいは「エナンティオドロミア」の作用により、バランスを取ろうとして反対方向の無意識の側の不安に一気に流れ込んだのだと考えられる。
この例のように極端な形でなくとも、人が若い頃は尖っていて「周りはみんな敵」のように感じていても、年を重ねていくにつれて、「敵」にもそれぞれ事情があることがわかり、丸くなっていくことも「心的エネルギーの平均化」の自然な例としてとらえられる。
つまり、若い時には自分の事情に心的エネルギーを注力していて、他人の事情には無意識でいても、だんだんと他人の事情が意識化されていくことで、心的エネルギーが双方に流れてバランスが取れるようになっていくということである。